夕方には戻りますから。
そう言った男は夕食時になっても姿を見せなかった。
勝手に入り込んだ主のいない部屋で、寒さを遮る厚いカーテンを僅かに開けると、途端に冷たい空気が身体を包み込む。窓を濡らす露を指先で払い、見やった外に望んだ姿があるはずもなく。見上げた夜空に浮かぶ月の位置で、だいたいの時刻を確認してユーリは眉根を寄せた。
星や月の位置で時間を知る。教えを請うた時に、覚えなくても必要な時に時間を教えて差し上げます、などと言ったのはどこのどいつだと内心で悪態をつきながら。
時間が気になる時というのは概ね、その男がいない時なのだ。そんなこと、口に出せるはずなどなかったけれど。
暖炉の点け方にしてもそうだ。薪で指を怪我するといけないから自分に任せろなどと過保護なことを言うくせに、いつの間にか危なげなく火を起こせる程度には慣れてしまった。
「もう日が変わるぞ」
寒い季節、この国は雪が多い。
国を挙げて対策をとってはいるが、それも優先されるべきは主要な街道ばかりで、小さな道になるほどになかなか手が回らないのが現実。
昼間降った雪に足を止められているのかもしれない。
「鳩ぐらい飛ばせよな」
そんな余裕も無く急いで帰途を辿っているのか。それとも、飛ばせないような何かが起きているのか。
あの男が絡むと、どうも思考がらしくない方向へ流れてしまう。
カーテンを閉めて、指を濡らした露を軽く振り払う。薪がほとんどが燃え尽きて、火が弱い。
薪を足すかと考え、それよりも寝床を暖めることにして灯りを消して寝台へと潜り込んだ。
扉が開く小さな音で目が覚めた。
部屋に人が入ってくるのが分かる。灯りをつけずに、テーブルに荷物を置き、外套を脱ぐ。それらの動作の全てが静かにゆっくりと行われているのは、明らかに起こさないようにという気遣いだ。
なんとなく起きたことを伝えるタイミングを逃してしまった。目を閉じたまま、残りの感覚を総動員して微かな音と気配を感じ取る。一歩一歩近づいてくるのを待つこの僅かな時間がもどかしかった。
「起きてたんですか」
どこで狸寝入りに気づかれたのか。
ようやく傍らにやってきた男の口調があまりにも落ち着いていたから、ユーリは目を開けて相手を睨みつけた。
「遅い」
暗い室内でも、長い付き合いならば相手の表情も、考えていることもある程度は理解できる。
機嫌の悪い理由が、寂しさだとか、そう感じてしまったことが恥ずかしいからだとか、告げられていた時間より帰還が遅かったことよりもそれに付随するあれこれのせいであることなど筒抜けなのだろう。
だからこそ、見下ろしてくる男は笑っていて、ユーリは余計に機嫌を悪くするのだ。
「悪いと思ってるのかよ」
「思ってますって。すみません、ユーリ」
手が伸びてくる。いつものように髪や頬へと触れようとした手が、触れる前に引っ込められた。
「なんだよ」
「冷たいですよ」
「いいから寄越せよ」
布団の中で温まっていた手を今度はこちらから伸ばす。暖炉はいつの間にか消えていて、外ほどではないけれど室内の空気も冷えていた。
男の一回り大きな手をとる。普段から冷たい指先が、今はまるで氷のようだ。
「こんなに冷やして」
両手で包んで熱を分ける。僅かにだが温まったことに満足して離すと、今度は両腕をかかげた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
意図を察して屈む男の背へと腕を回して抱きしめる。抱き返してくる身体も冷たい。夜の雪道は酷く冷えただろう。
雪の名残か、夜露か。髪から滴り落ちた雫が首筋を濡らす。思わず腕の中で震えたら、ゆっくりと身体が離された。
肩を押され、ベッドへと再び横たわる。上掛けがかけられ、あやすように上から叩かれた。
「風呂と着替えを済ませてきます」
「ああ」
温まってこいと言うべきなのだろうが、それは同時にしばらく戻ってくるなという意味も含んでいて、口に出すのは躊躇われた。
「すぐに戻ってきます。こちらの方が温かそうだ」
男が笑う。
先ほど熱を分け与えた手が、かけられたばかりの上掛けの中に忍び込み、夜着の胸元の素肌を撫でた。
「さっさと行ってこい」
「はい」
触れる手は少し冷たかったのに、触れられた場所はじんわりと熱を持つ。
見透かすように響く笑い声から隠れるように、ユーリは上掛けを頭から被って身体を丸めた。
(2009.12.14)
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