部屋の主はそこにいなかった。
しかし、気配は色濃く残っており暖炉の火も赤々と燃えていたので、あまり考える間もなく扉の隙間から身を滑らせた。自分のためにと敷いてくれた毛足の長い絨毯が床からの冷気を遮断する。有利はなんとなくつま先立ちになり、素足でその上をふわふわ歩いた。
ソファに腰を下ろしてほどなく扉が開き、部屋主が姿を現した。
「すみません。お待たせしてしまいましたか」
たいした時間でもなかったので、有利は首を横に振ってコンラートを出迎える。もっとも、この男がこんな静かな夜に部屋を長時間開けるなんてよっぽどのことだろうし、たとえ帰りを待つことになっても、それが何の苦にもならないことを自分でもよく分かっていたから。そんなことよりも有利の興味は別にあった。鼻腔をくすぐる甘くて少し刺激的な香りに自然と呼吸が深くなる。自分の手元に視線が釘付けになっていることに気付いたコンラートが、微笑みながらトレイを差し出してきた。
「寒くなってきたので、そろそろ良い頃かなと思いまして」
分からないといった風情の有利を視線で促し、ソファに並んで座る。陶器の器からは幾筋もの湯気が立ち上り、誘うように姿をくゆらせていた。
飲んでみて、と片方の器を手渡され、有利は恐る恐る口を付ける。つんとする独特の匂いからアルコールを含む物だと脳が判断を下したが、拒否の理由にはならなかった。頑なに酒類を避けていたのはとうの昔になり、気が向けば時々嗜む。特に、一日の終わりに信頼のおける相手と酒を酌み交わし、他愛のないことをあれこれ話すひとときは、日中に緊張を強いられていた心と身体を程良く弛緩させてくれて好きだ。とは言っても、強い酒は苦手だし、量も少なくて済んでしまうのだが。
口に含むと甘い葡萄の味とオレンジの味が口いっぱいに広がった。ワインに似た味わいだが、温めてアルコールが飛んだのかより優しい口当たりだ。飲み下せば、温かな液体は胃の腑に落ちていき、熱が血流に乗って身体の末端にまでじんわり染み渡った。
「これ、ワイン?」
ほう、と息を吐き、問いかけた有利の表情にコンラートの笑みが深くなる。
「ええ。我が国で冬と言えばこれ、グリューワインです。寝酒に最適」
身体だけではなく心まで温もっていく。最後は歌うように調子を取ってみせたコンラートに有利は満ち足りた笑顔を向ける。この柔らかな喜びを早く共有したくて、トレイに置かれたままだったもう一つの器をコンラートに勧めた。
「あんたも、冷めないうちに飲んで」
「ええ、いただきます」
一言告げて、白い器がコンラートの手に収まる。一口二口飲んで有利と同じ所作で息を吐いたが、すぐに顔を覗き込んできた。
「どうでしたか。口に合いそうですか」
僅かに不安の色をよぎらせた顔を見て、有利は率直な感想を口にした。
「うん、美味しいよ。飲みやすいし。それに、すごくあったまるね」
それは良かったと柔和に微笑み、コンラートは再び器を口元に寄せる。酒に慣れたこの男には、この程度ならジュースにしか感じられないのだろう。有利が半分も飲まないうちに全て綺麗に無くなっていた。
「あー、もう全部飲んじゃった?」
有利の言葉を受け、コンラートの動きが止まる。どうしたのか、と揺らめく瞳に引きずられるように有利の唇は自然に動いた。
「あんたのやつ、おれのと中身が違ったろ。ちょっと味見してみたかったなー、なんて」
トレイに乗せられた二つの器からはそれぞれ違う香りが生まれていた。自分が飲んだものにはオレンジ。もう一つからは香辛料のような香り。
「すみません。俺の方にはシナモンが。グリューワインは初めてだろうと思って飲みやすい味にしてみたので」
大方予想はついていた。恋人の微妙な気配に敏感なこの男は、何年も付き合った相手の好みなどすっかりお見通しなのだ。またそれがズバリ的確なポイントを突いてくるので、嬉しいくせに見透かされているようでちょっと悔しかったりもする。有利はむず痒い思いを持て余しかけたが、辛うじて身の内に押しとどめた――はずだった。
もう一度用意してきます、とコンラートが立ち上がるのを制し、有利はソファから腰を浮かした。
「いいよ。あんたからもらうから」
熱い奔流が激しく体内を駆けめぐる。ついさっき感情をコントロールしたことなんかすっかり忘れて、膝に乗り上げ、首に腕を回した。いつになく積極的な行動に自分でも驚いたが、そんな思考はアルコールのせいにして片隅に押しやった。舌先で唇をかすめるように舐め上げれば、僅かな刺激が感じられる。下げた目線の先では薄めの唇が優雅なカーブを描いていた。
「酔っていますか」
「そうかも」
なんだかおかしな気分になり、口元だけで笑う。満足して上体を起こすが、いつの間にか腰をがっちり抱えられ動けなくなっていた。
「それだけじゃよく分からないでしょう。もっと味わってみて」
挑発にも取れる囁きが身体の奥を震わせる。有利は背筋を伸ばし、クセのない髪を指に絡め瞳を閉じた。
唇を触れあわせて隙間から舌を差し入れると、さっきよりも強い風味が感じられる。甘さの中に漂うスパイシーな香味がぴりりと舌先を刺激した。もっと欲しくなって角度を変えて深くくちづけたら、相手のものが絡みついてくる。舌を這わせ、唾液を含ませ合えば、甘い蜜が腰に滴り落ちる。腰に置かれたコンラートの腕に力が込められたので、有利も頭を引き寄せる。夢中になって互いの味を確かめ続け、名残惜しく唇が離れた時には、全身がすっかり熱くなっていた。
「ゴチソウサマ、です……」
それだけ言うのが精一杯だった。
自分からねだったくせに火照った身体と顔を見られるのが恥ずかしくて俯いてしまう。頭上から盛大な溜息が振ってきたので慌てて顔を上げると、コンラートは困り果てた顔をしていた。
「まいったな。これじゃグリューワインの意味がない」
右手で髪を掻き上げた恋人が右眉の傷に触れながら濃艶に笑う。
「寝酒どころか、余計に目が覚めました」
節くれ立った指が有利の頬に触れてくる。上気した肌には痛みを覚えるほどに冷たくて、有利は僅かに眉を寄せる。そして、かけ離れた温度差から己の発情っぷりを改めて思い知らされてしまう。いたたまれなくなるほどの羞恥に、たまらず言葉を押し出した。
「なんだ、まだ酒が足りないんじゃないのか。それともコンラッドさんは血の巡りが悪いのかな」
憎まれ口を叩く有利にコンラートも負けじと応酬する。
「すぐに温かくなります。あなたの熱を分けてもらえれば」
「ばか」
二人の間に、これ以上の会話は必要なかった。
くすくす笑い手を取り合いって、四角い形をした柔らかく暖かな楽園へ向かう。
恋人たちは知っていた。
倒れ込む寸前に交わしたじゃれあうような口づけが、長い冬の夜の始まりを告げる合図であることを。
(2009.12.21)
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