「本当に君って勇気あるよねぇ。安眠求めて夜の帝王の部屋に行くなんてさ」
如何にも徹夜しましたと云う顔をした村田は、おれを見るなりそう言った。早朝の血盟城の廊下で、ばったりと出くわしたのだ。
内心おれは“何でコンラッドの部屋からの帰りだって分かるんだ”と云う疑問を浮かべたが、それを口にはせずに口を尖らせた。
「仕方ないだろ、毛布も布団も全部取られちゃったんだから」
血盟城が雪で覆い隠される季節に寝間着一枚で過ごせる筈が無い。先ず睡魔も遠のく。それも全て、ベッドを八割方占拠しているヴォルフラムが毛布らにぐるぐる包まっているからいけない。
「責任はお兄ちゃんに取って貰わなきゃな」
「あー。おにーちゃんねー」
欠伸をしながらお座成りな言葉を吐く村田は、眼鏡を外すと手の甲でごしごしと目を擦る。
「まぁ何でも良いけど。程々にしときなよ、青少年」
ひらひらと不規則に手を振り、親友はのんびりと進行方向へ足を向ける。その背中を眺めながら、おれは心臓の上辺りを汗をかいた左手で握りしめていた。
自室に戻ったおれは、寝室にいるヴォルフラムの安らかな鼾を聴いては鼓動を速めた。恐怖心からだ。起きてくれるなと願いながらクローゼットから持ち出した着替えに袖を通す。
いつもならこんな事は無い。自称とは云え婚約者の彼の実の兄の部屋で情を交わしてきても、騙している罪悪感も無く笑顔でおはようと言ってのける。
先程廊下で村田にかけられた言葉が、どくんどくんと心臓が鳴るにつれ体に沁み渡っていくようだ。
その毒のようなものの正体は、実の所よく分かっている。
後ろめたさだ。
親友に自分達の関係を告白していなかった事にでは無い。第三者に知られていると知った時に感じた不の感情がコンラートに申し訳無くてだ。
もしそれが、恋人が男だから感じるものだとしたら、おれは彼と付き合う資格は無いのだと思う。だからおれは、普通に女の子と付き合っていたとしても同じものを感じるだろうと、そう自分自身に言い訳し、納得させた。
以前、コンラートに相談した事がある。「あんたとの関係を後悔はしないけれど、他人に知られるのが怖い」と。
羞恥とは違う。他人の目を気にする方では無いと自認しているのに、恋愛感情に対してイレギュラーへの対応が未だ出来ないのだ。
その言葉に彼は、裸のおれの背を撫でながら「ええ」と相槌を打って、そのまま撫で続けた。ただただ撫で続けただけだった。
酸っぱい気まずさこそが、檸檬のようだと思う。思えばこれは本当の初恋と呼べるのかもしれない。今迄の幼稚な憧れとは別格の感情は、それでも幼くはあるけれど。
沸き起こる対応出来ない感情も全て、愛だとか快楽だとかになってしまえば良いと思う。皆おれにとっては形無い物に変わりは無い。どろどろに溶かして、自分でも気付かないくらいにしてしまえば良いのだ。
若さ故の悩みよ。今だけだ、大いに楽しめと言われても、深刻に頭を抱える当事者には伝わらない。身の内に転がる毬の付いた不の感情を、どうしようもなく持て余しているだけである。
その日の昼過ぎ、気も漫ろなおれは執務室を追い出された。
グウェンダルごめんなさいと心の内で謝りを入れ、己の精神の未熟さに肩を落とす。今朝から取り憑かれたように、脳が鈍く重い。コンラートの寝室に居る間はそんな様子が無かったのだから、恋人は不思議に思っただろう。
額に手を当てられても、平熱より冷たいだけだ。
「外に出ましょうか」
そう言って伸ばされた手を取ると、日中の城の廊下だと云うのに手を繋いで歩く事になった。やっぱりおれは少し俯いて、先導するコンラートの足元ばかり見ている。右、左、右…一定のリズムで刻まれる足の運びは舞踏のようだとも思う。彼はとても上手だから余計彷彿させるのだろう。
幼い日にかえった様な歩き方なのに、やはり意識してしまうのは体の関係を持ったからだろうか。目線を僅かに上げると広い背中が目に入る。その背中の丁度…肩甲骨の上辺りに昨夜引っ掻き傷を付けてしまった事を思い出し、頬を染めた。
体が膨れ上がる程着込んでからコンラートに連れ出されたのは、見渡す限り何の障害物も無い真っ白な世界だった。
城の敷地内だってのに、ずっと遠くに来たような気分になる。
頭から足の先まで黒で埋め尽くしたおれはまるで不自然な存在に感じて、純白を汚す恍惚よりもずっと居た堪れなさが勝るのだ。
それ程に圧倒的な白の中に眞魔国は半年近く埋もれる。
大賢者の存在を知らなければ、黒を崇高するのも、白ばかりの世界で気が狂ってしまったからなのだと思い込んだだろう。
「処女雪だ」
そう呟いてから失敗したとおれは顔を顰めた。きっとコンラートが嫌がるだろうと思ったからだ。
しかし彼は小さく喉で笑うと、おれの背中を押した。
当然顔面から雪の中に埋もれる事になったおれは、肌がひりつく冷たさに慌てて起き上がる。何しやがるんだと目線を向けると、彼は言葉の割に穏やかな表情をしていた。
「俺は処女性など気にもかけませんし、初めてを頂いた事に何の後悔もしていません。貴方と違って、染める事に何の抵抗もありませんから」
「貴方と違ってって何だよ」
「普段男前の貴方が、思い切れていないようでしたので」
思い切るも何も、胸に巣食う言葉に難しい感情をどう割り切れば良いのか分からないのだ。
襟元から僅かに入り込んだ雪が融けて、喉に濡れた感触が残る。おれは上半身を起こしたまま、尻を雪から離せずにいる。
「周知が恐ろしいと貴方は言いました。初めて恋を知ると、沢山の変化に追いつけずに恐怖する。…それに耐えられないから初恋は続かないのかもしれません」
言われた事を理解しながら、心臓への圧迫に苦しくなる。初めて「好きだ」と告げた時を上回る緊張に頭までが真っ白になってしまった。
これは引導を渡される言葉なのだろうかと何処かで薄っすら考え、その想像だけで泣けてくる。弱くなったものだ…。これも変化ならば、恋と云うのは何の為にあるのだろう。
「ねぇユーリ」
コンラートも雪上に膝を下ろし、正面からおれを抱きこんだ。声が耳元にかかるのに、冷えた耳殻は吐息を受けても感覚として認めてはくれなかった。
「初めてって、そんな大層な事じゃないんですよ。済んでしまえばなんて事は無い。当たり前の事になるんですから」
「…当たり前?」
尤もらしい事を言う彼に少し可笑しくなって声が上ずった。コンラートは「ええ」と歌うように応える。
「貴方はまだまだ沢山戸惑うでしょう。けれど、通過点に過ぎない。俺はこれからの長い時間を貴方と過ごしたいから…少しだけ、我慢してくれますか?」
付き合うと云う事は、二人の間で全てが完結する事では無いのだと思い知った。二人が居ればそれで全てだなどと云うのは有り得ない。そしておれはそれを当然の事なのだと受け入れなければならない所に居る。
この人とこれからを生きるには。
おれは両腕をコンラートの背中の回し抱きこむと、体重を後ろにかけて倒れこんだ。器用にも出来る限り体重をかけないよう気を使って倒れてくれたらしく、上に重なっている重さはそれ程でも無い。けれど思いきり体重をかけて欲しかったのだ。全てを受け入れるように。
「コンラッド」
甘えるような響きで名前を呼ぶと、彼はおれの胸の中で「何ですか」と返す。珍しい体勢が少し心地よい。
「やっぱりまださ怖い事も一杯あるよ。でも、頑張りたいと思う。情けないけど、許してくれるか?」
「許すも何も、俺の我儘で我慢させるんだから。俺が貴方を手放したく無いから」
「一方的な言い方するな」
頭を軽く叩きながら「ちゃんと好きだから」と呟く。
コンラートは暫し無言の後、体を転がしおれの横に並んで寝転がった。それから、深く息を吸い込んで溜息のように「愛してますよ」と空に向かって言う。雪で響かない筈なのに、その言葉はやけに広がって聞こえた。
何だかこの寒い中二人して雪にまみれたのが可笑しくて、久しぶりに声を上げて笑い合う。
「夜の帝王と魔王ってどっちが凄いかな」
「……なんですか、それ」
「あんたの事らしいけど」
揶揄うように言えば、苛立ちを僅かに表情に出したコンラートは四つん這いになって覆い被さって来る。見上げるこの体勢に安心感を抱いている自分が居る事に気付いた。
write:09.12.29-30
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