眩しさに、目が覚めた。
僅かに身じろぐと、布団の隙間から冷たい空気が入り込む。締め切った室内は、木造という構造のせいか、築年数のせいか遮断性がよろしくなかった。
「起こしてしまいましたか」
「ん…、コンラッド?」
「雪が降ったようです」
コンラッドが横にずれると、さらに眩しくなる。カーテンの隙間からは、寝転んだままでは雲一つない青空しか見えなかった。
コンラッドと出会ったのは、とても暑い夏の日だった。
大学に進学して一人暮らしを始めたものの、電車で一時間半ほどしか離れていない距離のせいか事あるごとに実家からは呼び出しが掛かる。まだ親の援助を受けているという自覚があるので断りづらくて、けれど勉強にバイトにと忙しい身としてはあまり歓迎できず。
誕生日を祝いとして用意されたケーキと少しだけ豪華な夕食を実家で食べた後、泊まっていけという言葉を辞退してアパートに帰った。
すっかり遅い時刻、人通りがない、けれど歩きなれた道の真ん中に、それはいた。
「おい、あんた」
べったりとアスファルトに伏した背中を見て、死んでいるのかと思った。
「おいって。大丈夫か?」
駆け寄って、少し離れた街灯からぼんやりと照らされた姿が日本人じゃないことに気づいたけれど、おれのよろしくない頭は咄嗟に英語をひねり出すことができない。
揺すってもいいものか、それとも触らずに救急車を呼ぶべきか。息をしているのか確かめようと屈みこむと、倒れていた男が低く呻いた。
「……」
「…なに?」
聞きなれない言葉だった。英語とも違うように聞こえたが、短い呟きでは判断がつかなかった。ただ、生きているということが分かってほっとした。
「救急車、すぐ呼ぶから!」
「いえ…」
次に聞こえてきたのは日本語だった。
だるそうにゆっくりと上体を起こそうとした男は、おれを見た途端に目を見開いた。それを何故かと思う余裕がなかったのは、おれも同じ表情をしていたからだった。
街灯の明かりを反射して、薄茶の瞳が不思議な輝きを見せていた。
「……あ、救急車」
「いえ、大丈夫…です」
しばらくの沈黙の後に、やっと状況を思い出す頃には男も少し落ち着いたようで。やはりふらふらしながら、それでも自力で起き上がることができるようだった。
「失礼、しました…」
「いや。おれ、なにもしてないし」
おれは友人たちに言われるほどにお人よしなんかじゃない。きっと、倒れていたのが違う誰かだったら、救急車を呼ぶか、そのまま見送っていたはずだ。
「待てよ」
何かに引き寄せられるように、気づいたら腕を掴んでいた。
おれの中の何かが、そこで離してはいけないと告げていた。
倒れていた男はコンラッドと名乗り、アメリカ合衆国発行のパスポートをおれに提示してみせた。
人を探してわざわざ日本まで来たという。手がかりもあまりなく、行く宛てもないという聞く限りは大丈夫なのか?と心配になる状況とは裏腹に、おれに話して聞かせるコンラッドはとても落ち着いていて、話に似つかわしくない穏やかな笑みさえ浮かべていた。
だから警戒心が緩んだのか。
具合が良くなるまでうちにいないかと、馬鹿げた提案をしてしまった。コンラッドは礼と共に辞退を申し出た。それは当たり前の判断で、おれの方がおかしいのは分かっているのに、自分でも不思議になるぐらいの必死さで引き止めていた。
「俺が、あなたを連れ去りに来た悪い男だったらどうするんですか?」
本当に悪いやつなら、そんなこと言うわけないだろう。
「なんか、初めて会った気がしないんだ」
どうしてそう思ったのか。コンラッドはおれの呟きに驚いたように眉をあげ、それからお世話になりますと頭を下げた。
そんな夏の夜の出会いから半年。
六畳一間のボロアパートで、体調が良くなった後もコンラッドとの奇妙な同居生活は続いていた。
四六時中顔を合わせていても息苦しくならない。穏やかな空気を纏い静かに佇んでいるかと思ったら、驚くほど過保護に甲斐甲斐しく世話をやいてくれる。コンラッドはとても不思議な存在だった。
「あんた、探し人はどうなったんだ?」
おれが大学やバイトに行っている間に出かけていることは知っていたけれど、コンラッドは探し人についておれに何も言わなかった。見つかったら、ここにいる理由がなくなると思うと、気になってしまう。
思い切って尋ねたら、コンラッドは穏やかに笑ってみせた。
実はもう見つけているんじゃないか、何故かそんな風に思った。
「散歩しませんか?」
「寒いだろ」
「意外ですね、あなたなら喜んで飛び出すかと思ったのに」
布団の温もりを手放すのが惜しくて少しだけ布団を引き上げた。
寝床の横に膝をついたコンラッドは、おもしろそうにそんなおれを見下ろしている。
「もう子供じゃねぇよ」
「知っていますよ。次の夏が来れば、あなたも二十歳。この国でいうところの大人ですね」
アメリカの成人は二十歳ではないのだろうか。
ぼんやり考えてはみたが、知らない知識だ。答えが出てくるはずもない。
逃しがたい布団の温もりの中へとコンラッドの冷たい手が入り込んできた。乱暴ではないけれど強引な動きで軽く引っ張り出される。
「しょうがないな」
口ではそんなことを言っても、一緒に出かける相手がコンラッドだと思うと少しだけ心が弾んだ。ようやく出かける気になったおれに、コンラッドが当たり前のように着替えを差し出してきた。コンラッドが時々おれのために選ぶ服は、黒が多い。今日も例に漏れずに黒のセーター。
おれに一番似合うからと言うけれど、よく分からない。ただ、なんとなく買う服に黒が増えた。
雪の降った日の早朝に出歩きたがる酔狂な人間なんておれたちぐらいだ。
家を出てから誰ともすれ違わない。まるで世界から人間が消えてしまったように、静かな…何かを予感させる朝だった。
堤防をコンラッドについて歩いていく。目的があるのかないのか、やがてコンラッドは誰も踏み入れていない雪に覆われたグラウンドを見下ろして立ち止まった。
いつもなら、振り向いて柔らかな笑顔を浮かべてくれるのに、今日はそれがない。この半年で、少しだけ分かってきたと思ったものを否定されたような気持ちになりながら、おれはコンラッドの背中を見つめた。
「俺の故郷は、とても雪深いところです。冬の間は雪が解けることがないんですよ」
「アンタの故郷ってアメリカの北の方なの?」
コンラッドは、あまり自分の話をしない。秘密にしているわけではないみたいだけれど、自分から話そうとしないのでおれもなんとなく聞けずにいた。
「いえ、アメリカじゃないんです。今の国籍はアメリカですが」
「ふーん」
「自然が豊かで、美しいところです」
冷たい風が吹いた。思わず首を竦めたおれとは対照的に、コンラッドは懐かしい故郷を思い起こすように顎を僅かに持ち上げた。
「帰りたい?」
「……故郷ですからね」
人を探していると言った。
「あんたが探してる人と一緒に帰るの?」
「そうするつもりでした」
過去形。
この半年、日本に伝手がないと言いながら、コンラッドは時折ふらりとどこかへ出かけていた。
「見つからなかった?」
「いいえ。見つけていましたよ」
「じゃあ、帰るんだ」
「悩んでいるんです」
コンラッドが振り向いた。浮かべられた笑みの柔らかさに、心臓を鷲掴みされたような錯覚に陥る。
なんて幸せそうに、けれど切なそう笑うんだろう。
「ユーリ」
一瞬だけ浮かんでしまった暗い感情は、低く穏やかな声に呼ばれた途端に霧散した。
「とても逢いたかったんです。ずっと待っていました。待ちきれずに、迎えに来てしまいました」
まるで愛の告白のようだ。
「……っ」
「でもね…」
手が頬に触れる。冷たい手。
けれど、その手の先にいる人がとても優しいことをおれは知っていた。たった半年だけれど、家主だという理由では説明できないほどにおれを大切にしてくれていた。
たくさんの出来事がすべて過去形で思い出されるのは、コンラッドの告白が別れの挨拶だと気づいてしまったから。
「その人がいま幸せそうにしているのを見たら、俺たちの…俺の都合で連れて行くのは間違っている気がしてしまって」
半年。
コンラッドは何も言わなかった。どうして人を探しているのか。それがどんな人なのか。
今日も言うつもりはないのだろう。言わないまま、別れるつもりでいるのかもしれない。そんな予感が、少しずつおれの中で確信へと変わっていく。
「でもさ、…っ」
寒いはずなのに、握り締めた拳の中がじっとりと汗ばみはじめる。
それは自惚でも、ただの願望でもないはずだった。
「その人が嫌だって言ったのかよ」
コンラッドが探していたのが誰なのか、どうして今まで気づかなかったのか。
「いいえ。俺が迎えに来たことさえ、その人は知りません」
「じゃあ、聞いてみればいいのに」
どうして言ってくれないのだろう。
見上げたコンラッドは、まっすぐにおれを見ていた。慈しむような笑顔は、最初からおれに…おれだけに向けてくれていたものだ。
「もう二度と、戻れないかもしれないのに?」
「じゃあ、あんたは帰ったら戻ってこないのか?」
「ええ、多分…」
考えてみたら、おれはコンラッドのことを殆ど知らない。例えば世話好きなところとか、ブラックの珈琲が好きだとか、そんな他愛のないことばかりしか知らないのに、何でも知っているような気になっていた。
「戻れない、かも、だろ」
ただ、これだけは事実だ。
とても、とても大切にされている。
「聞いてみてよ。おれは、あんたになら……」
頬に触れていた手が動いた。親指がゆるく唇を押さえ、言葉を遮る。
「ダメですよ。言ったでしょう、戻れないかもしれないと」
「でも、おれは…」
全てを捨てられるのかと問われていた。ただ、ここで悩めばコンラッドは目の前から消えてしまう。言いようのない焦りが込み上げる。
「じゃあ、もう半年。考えてください」
そんなおれの内心を読み取るように、頬から離れた手が背へと回された。優しく労わるように背を撫でたかと思うと、優しさ以上の強さで抱きしめられ、おれはコンラッドの胸で何度も頷いた。
「さよなら、ユーリ」
「コンラッド?」
別れは突然だった。
顔を上げた時にはもうそこには誰もいない。ただ人気のない雪景色が広がっていた。
また夏が来た。
あの日のように広がった青空を見上げて、その眩しさにおれは目を細めた。
きっと、もうすぐ逢えるはずだ。
(2010.01.11)
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