柔らかく髪を撫ぜる掌で朝を知る。カーテンが触っているのかと勘違いする程に優しい感触に、日差しの眩しさも忘れて微睡んだ。
気持ちいいこっちは良いけれど、名付け親が如何いうつもりで毎朝この行為をしているのか分からなかった。検討をするつもりもなかった。あまりに自然で日常に溶けているから、それが普通なのだと思っていたのだ。
普通じゃないなんて思わなかった事こそが不自然であったのに。隣で健康的な寝息を立てているヴォルフラムや、実の兄が前髪を撫ぜたら大声で喚くであろう事も、当のユーリの思考の内に無かった。
それは名付け親に対する絶対の信頼、そこからくる安心感のせいだろう。コンラートの存在の根本から、無害であるとユーリは判断していた。今になっては、その感情こそがコンラートには邪魔であったのだろうけれども…。
普段と何一つ変わり無い朝であったのは間違いない。原因は不明だが、心の機微がコンラートの内側で起こったのだ。ユーリはそのような事察せる筈が無い。知る事が出来たとしても、正しい反応、対応が出来たかは疑問だ。
羽のように軽く前髪に触れられた。そこまでは良い。気持ちよさに身じろぎすら勿体なく感じていた。けれど(ユーリからしてみれば)急に額を押さえつけられ、瞼を見開いた時には唇を食まれていたのだ。
驚きで鼻から声を漏らしたが、そんな事などお構い無しにコンラートは貪る。触れるなんてものじゃない、浸食行為だ。
寝起きだからといってぼんやり成り行きを見守る事が出来る程、ユーリはこの行為を軽視してはいない。
ねっとりと蠢く肉が舌であると気付いた時には、右手が動いていた。固く握った拳が真横から男の頬を殴る。良い音が響いた。
上半身を慌てて起こし、荒い呼吸を繰り返す。右手は握られたままだ。怒りの為かぶるぶると震えている。
「何してんだよ」
床に尻もちをついていた男は立ち上がり、真っすぐにユーリを見詰めた。眉は苦しげに寄せられていて、けれど眼光の強さは後悔を感じさせない。反省の色が無いと判断したユーリは機嫌悪く男を睨みつけた。
「……冗談はよせよ、あんた、おれじゃなかったら務所にぶち込まれても仕方ないぞ?」
「何故、あなたなら良いんですか?あなたにするなら罪にならないのですか?」
今度は何を言っているんだとユーリは半ば呆れた顔をしたが、コンラートの表情は真剣そのものだ。気圧されてユーリは僅かに顎をのけぞった。
「これを貴方は戯れだとおっしゃるのなら、俺はどうしたらいいんだ。どうしたら気付いて貰える」
「コンラッド…?」
あなたが好きなんです。そう告げた時の彼の表情は、あの掌と同じくらい柔らかくて優しい、穏やかなものだった。
*
コンラートは何も変わらない。無理やり唇を奪った時の激しさなど、それ以降見せる事は無かった。今迄見ていた彼のままだ。
執務室で背後に控えているのも、休憩の為にお茶を淹れてくれる手つきも、掛布を横になったユーリに掛けて整えるのも。
それから次の日の朝も、木漏れ日のような掌が降りて来た。
けれど、腫れた右の頬が教えてくれる。あれは実際にあった事なのだという事を。手当も碌にされていない剥き出しの頬はきっとわざとだ。
見せ付けられている青痣に心が傷む。殴ってしまった罪悪感なんてものでは無い。あの痣はコンラートの言葉を呼び覚ます。あれ以降何も言ってこないのでは無くて、痣が十分語っているのだ。おれを好きだ、と。言葉よりも雄弁に。
それに何の言葉も返せなかったユーリは、今も真っ白な頭をしながら心を傷めている。
あの口付けさえ無ければ、好きだと言われても何も感じなかっただろう。動植物に対する愛情と違いが見出せない。そう、あの暴力的な口付けがいけなかった。
初めてだった。その事に気付いたのは、起こった日の昼過ぎだった。唇に指先で触り、何か変化は無いかと確認した。少しがさついた皮が指の腹に引っかかり、爪で剥く。表皮を全て剥いたとしても、行為は無かった事にはならないというのに。
無かった事にしたいのだろうかと考えたが、それさえも疑問であった。もしもを仮定する事に意味を感じないからかもしれない。
やがて血が滲んだ唇を舌で舐める。鉄錆の味が苦かった。それが少しだけ、コンラートに似てると思った。
「陛下」
そう呼ばれて我に返る。顔見知りの兵士は一礼してから近くに寄った。専属護衛は今現在中庭で剣を握っている為に代理の護衛だ。勿論一人では無い、視界を巡らせば数人が辺りに気配を殺して居る。
普段は一人しかいない護衛が一気に三、四…六人か。何故だか肩が凝ってしまい、溜息した。城内だと云うのにこうも周りを固められると息苦しい事この上無い。
…そう、いつもこの体はたった一人に護られていた。
キスなんかで裏切りやがってとは不思議と思わなかった。裏切りとは真反対の行為に思えた。気障ったらしく指先に忠誠の口付けをするのと似ている。あれは何かをおれに捧げていたのかもしれない。
――捧げるなんて何を。
…それが愛だとでも云うのだろうか。
あの男はいつも貰っても困るものばかりを捧げてくる。今回もそれだ。
「ねぇ、おれって鈍感?」
いきなりな魔王からの質問に、兵士は目を白黒させ、それから目線を左右へと移動した。こめかみに冷や汗が浮かんでいる。それだけで答えは分かった。
温厚な彼の我慢の尾が切れたのだろう。その原因は自分だ。
だって仕方ない。あれ程自分にとって絶対安全の具体化は無かった。今でもその想いは同じだ。けれど、それだけでは無かったという事だ。
「剣術指南、もうすぐ終わるよね」
「あの…閣下の怪我は陛下が…?」
そう問われて、複雑な笑みを返してしまった。城内勤めの兵士や侍女は敏い。違和感無く過ごそうが拾ってしまうらしい。普通男の頬に怪我などあれば、女にふられたとでも思うだろうに。…そう違わないが。
「困ったなぁ…」
もし気持ちを知って貰う事が真実目的であったのなら、それは達成された事になる。彼は気付いて欲しくて暴挙に出たのだ。だとしたらユーリがそれを理解した時点で終わりだ。何の反応も求められていないのだから。
酷く一方的で、我儘な感情が彼らしい。
少し速足で中庭へと向かった。なのに遠回りをしている。考える時間が必要か否かが鬩ぎ合い、体が振り回されているようだ。
中庭が姿を見せ、彼の人が視界に入ると呼吸を整えた。こちらに視線は寄こさないが、彼の事だ、どうせユーリが現れた事など気配でとうに気付いている。
それでも特に表面上の変化はコンラートには無いが、寧ろ指南を受けている兵士の方が動揺した為に勝負は安易についた。剣が飛び、飛んだ剣を目で追うと、綺麗に弧を描いて地面に刺さる。
それが最後の相手だったのだろう、兵士は整列し礼をしたかと思うと解散した。
コンラートはゆっくりと踵を返し、此方へと歩み寄ってくる。相変わらず着崩してさえいない姿に、嫌味な奴だと思うが反面で格好が良いと認めた。
「どうなさいました?」
口を一文字に閉じ、眉を顰め、目つき鋭く見上げると、コンラートは困ったように微笑んだ。その奥に覚悟が見えるのは気のせいだろうか。ユーリはすぅっと空気を吸い込む。
「分かんないんだ、おれ、あんたの気持ち。分かろうとするのが間違いだってあんたは言うかもしんないけど、あんたの自己満足でファーストキス奪われたってのは腹立つし…だからって如何しろってのも浮かばないんだけど」
「…ファーストキスだったんですか」
「謝んなよ。二回目だったら良いとかそういうんじゃ無いんだから」
コンラートは口を噤んだ。周囲からは視線が幾つか飛んでくるが、それを払う事もしなかった。聴こえていようがいまいが、大して問題では無い。重要なのは目の前の主の言葉だけだ。少なくともコンラートにとってはそうだった。
「おれの事好きだっつったよな。なのに悪い夢を見たみたいに接するくせに、うざいくらい痣見せ付けてくる。何がしたいんだよ」
「この怪我さえ嬉しい」
ユーリは言葉の意味が理解出来ずに瞬きをした。
「抵抗であろうが、あなたに触れた証だと思うと消したく無かったんですよ」
「…馬鹿か!無理やり一回しただけで満足かよ。痣なんか見てて痛々しいだけなんだよ、そんなのおれは見て居たくない。喜ばせる為におれはあんたを殴ったんじゃない!」
「何が言いたいんですか、ユーリ」
名前を呼ばれて言葉を途切れさせた。知らないうちに手はコンラートの軍服を握って皺を作っている。まるで縋るような視線を向けている事に自己嫌悪して逸らせた。
「……もう一回して」
驚いたように目を瞠ったコンラートは僅かに開いた唇の隙間から声にならない呼吸を漏らした。
頭が真っ白になる状態に久々に陥る。陥れた本人は伏目のまま睫毛を揺らした。
後は心の向かうまま。
顎を持ち上げた指はそのままユーリの顔を固定した。重ねた唇は、開く事も無く触れている。柔らかな感触だけを植えつけるようなキスだった。
…そのままどれくらい時間が経ったのかは分からない。まるで子供のキスだ。何の欲も感じない、愛情だけのキス。
場所も人の目も気にならない、恥ずかしいという気持ちさえ生まれてこない。
頭を撫ぜる温かさと同じ温度を感じていた。微睡みさえ感じてしまう感覚が好きだとユーリは思った。
「あなたが欲しいものをあげる事は出来るけれど、俺はそれだけじゃない」
最初に言葉を発したのはコンラートの方だった。
「熱を欲したら、あなたは逃げてしまうでしょう?」
「変なの…好きなだけじゃ駄目なんだ」
コンラートの胸に額を押しつけて声を殺した。双肩にかけられた掌は熱い。
「好きなのに…っ」
喉を逸らせ、青空を見上げたコンラートは胸に名付け子を抱き、穏やかに呟いた。
「ええ…ありがとうございます」
write:10.02.06
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