化粧をする - カイリ様


「そろそろ化粧のひとつでもしたらどうだ?」
冬と春を行ったりきたりしている中途半端な季節、窓から差し込むあたたかな日差しを背に受け、執務の小休止に優雅なティータイムを過ごしていたときのことだった。グウェンダルの言葉に間の抜けた声が上がってしまう。
「何だって?」
「面倒事も片付いてきた頃合いだし、そろそろ落ち着いた姿を国民に見せたらどうかと聞いたのだ」
「ええっと……それと、化粧がどう関係あるわけ?」
 わからない、と言った顔をあからさまにして見せるが、グウェンダルは説明しようとはしない。その代わりに、ギュンターが満面の笑みで、少し頬を紅潮させて近づいてきた。
「へいっっっか! それはとても良い考えでございます! もちろん陛下は化粧などしなくとも充分なその美しさで人々の心を掴んで止まない、ああっ! このギュンターめも陛下の虜でございますが! いえいえ、今はそのような個人的なことは置いておいて、陛下が今よりも一層お美しくなれれば、国民はますます陛下に憧れ、他国もますます眞魔国に一目置かざるをえません! ああ! そうとなればこのギュンターめが陛下に相応しい陛下のためだけの化粧品の──」
「ああもう、ちょっと待てよ! だからなんでそんないきなり……」
 途端に勢いを増して喋り続けたギュンターだったけど、おれには彼の言っている内容はあまり頭に入ってこなかった。というものの、目を爛々と輝かせ、鼻息荒く自分の世界に入りながら語るギュンターに目を白黒させるだけで精一杯だったのだ。ただ、彼がおれの好ましくないことを言っているということだけは理解していたので、断固拒否! という気持ちで声を上げたが、無情にもそのおれの声を遮ったのは誰もが逆らうことのできない、それでいておれと同い年のダイケンジャー村田健。
「それも一理あるよねー」
「村田!?」
「いいんじゃないの、化粧のひとつやふたつ。それで国民の支持が上がるなら安いものさ」
 あっさりと言ってのける村田に、腹の底からふつふつと苛立ちが沸いてくる。
「お前なあ! 他人事だと思ってそうやって」
「ちょっと待ってよ、他人事じゃないよ。僕は眞魔国のことを思って言っているんだよ」
 村田の一言で急に執務室内がしんと静まりかえる。いつもいそいそとおれの世話を焼いてくれるコンラッドも、子犬のようにきゃんきゃんとうるさいヴォルフラムも実は同じ執務室内にいるのに興奮しきったギュンターと無駄にメガネを光らせているダイケンジャーのおかげで存在感が妙に薄かった。
「いいかい、渋谷。眞魔国にいることの少ない王様がクーデターにも合わず、こうやってのうのうと王様やっていられるのは誰のおかげかわかっているかい?」
「……フォンヴォルテール卿様のおかげでございます……」
 ちらりとグウェンダルを覗き見れば、眉間の皺を深くして頷いていた。その横でギュンターが「陛下! もうひとりおります!」と騒いでいる。だが、そんな王佐の主張はまるで耳に入っていないかのように村田は続けた。
「しかし、だ! いくらフォンヴォルテール卿が優秀であったとしても、この眞魔国の王は君だ! 双黒ということでそれなりにもてはやされてはいるものの、君に近しい者は君が良い人だと知っているものの、あのうさんくさい眞王への国民の依存度は低いものではない」
 村田が熱弁をふるう一方で、影武者のようにすっかり影が薄くなっていたコンラッドがお茶を淹れ直してくれた。ありがとうと言ってカップを受け取ると、村田のメガネがひときわ光り輝いて刺すような視線をおれに向ける。
「そこでだ! 中身はすぐに変えようはないけど、外見だったらいくらでも変えられるだろう? 損することなんか何にもないんだから、今すぐやるべきだね。それこそ、明日の謁見からでも」
「嫌だよ、だっておれ男だぞ? 男が化粧なんかしてたらフツーに気持ち悪いだろ」
 冗談じゃないとばかりに言えば、今まで黙っていたヴォルフラムが口を開いた。
「いいんじゃないか。身だしなみを整えることは悪いことでもないし、それでユーリの評判が良くなるのなら。それに貴族なら化粧をするものはわりと多い。別におかしなことではないぞ」
 まさかの反撃におれは一瞬、言葉を失う。そして、ここぞとばかりに村田がさらなる攻撃を仕掛けてきた。
「しーぶやー、芸能人だって化粧くらいするんだから、一国の主がしてなくてどうすんのさ」
「陛下! 猊下のおっしゃるとおりです! 増えるものはあっても減るものは一切ございません! ああ! こうしてはいられません、すぐに陛下に見合う化粧品の調達を……!」
 ギュンターは真剣におれを説得したかと思えば、ふたたび自己の世界に浸ってしまい、かと思えば目をぱっと開いてどたどたと慌しく執務室から出て行ってしまった。声をかけるタイミングこそ逃してしまったけど、おれは心の中で必死に「おれの心が減っちゃうから!」と叫んでいた。
 村田はにこにこと笑っていいじゃないかを繰り返し、ヴォルフラムは一体何が問題なのかとあっけらかんに答える。最後の頼みの綱と思い、コンラッドに視線をやれば、
「すぐに慣れますよ」
 と苦笑混じりに返されてしまった。


 そんなわけで翌日。
「ううー、べたべたするー。気持ち悪いー」
 顔を塗り塗り、眉毛を描き描き、唇をぺたぺたと塗られたおれは、早くも謁見前からテンションが海よりも深く沈んでいた。
「そのうちに慣れる。これからは公式の場では毎日やるそうだからな」
 おれの隣を歩くヴォルフラムはそう言うと、つやつやの健康的な唇で曲線を描いてにっこりと笑う。
「少しの辛抱ですから」
 おれの後ろを歩くコンラッドが、これまたつやつやで健康的な唇を動かして優しい言葉をかけてくれた。はあっと溜息をつけば、前方にいる村田がこちらを振り返って、これまたつやつやの健康的な唇を大きく開いておれを急かす。
「渋谷、早くしなよ。遅れちゃうだろ」
 そう、今日はみんな唇がつやつや。化粧をすることにゴネにゴネたおれが、おれだけしなきゃいけないなんて不公平だと言って化粧をさせたのだった。本当はおれと同じくフルメイクにしたかったけど、それも「君より外野が目立ったら意味がないだろう」という村田の最もな一言で却下されてしまった。というわけで、せめて唇だけでもというおれの願いが聞き入れられたわけだ。ただ、皆が別にそんなのどうってことないよという感じなので仕返しにもなりゃしない。
「陛下、謁見が終わったらキャッチボールでもしましょう。グウェンダルには俺から言っておきますから」
 泣きそうなおれを見かねたのか、コンラッドがヴォルフラムに聞こえないようにそっとおれに耳打ちした。キャッチボールくらいで直るようなテンションじゃなかったけど、コンラッドに世話をかけていることが申し訳なくて、謁見の間に向かう足取りを少し早めた。
 化粧が終わったと言われたとき、鏡を見てみるとちょっとおかしな自分がそこにいた。やっぱり似合わないなあと思いつつ、コンラッドに見せると「とても綺麗ですよ」と言われた。つるりと頬を滑った彼の指に少しだけどきりとして、一瞬だけ化粧も悪くないかもしれないと思った瞬間だった。それから、ヴォルフラムに見せても、村田に見せても、グウェンダルに見せても皆同じような反応だった。ただ、ギュンターだけはちょっとばかりオーバーだったと思うけど。
 皆のその自分に対する感想が嬉しいか嬉しくないかを聞かれたら、嬉しかった。ただ、それを素直に受け止められるような寛大さがなかったから、とても複雑な思いをしてしまった。男として中途半端に思われているような気がしてならなかったのだ。
 謁見が終わるとおれはすぐに自室に向かって走り出した。乾いた洗濯物を抱えたメイドさんの間をすり抜け、血盟城の広い廊下を掃除をするメイドさんの間を間をすり抜け、血盟城の安全を守る兵士の敬礼を無視して、一気に自室へと駆け込む。後ろからコンラッドがおれのことを陛下と呼びながら追いかけてきていたが、気に掛けている余裕はなかった。顔にバッチリと施された化粧を落としたくて仕方なかったのだ。
 自室に入るなり、真紅のマントを外し、学ランを脱ぎ、シャツを脱ぎ、上半身だけ裸になる。それから洗面所の水を勢い良く出し、ばしゃばしゃと水音を立てて顔を洗った。何度か洗っては鏡で化粧の落ち具合を確認するということをしたが、肌にきっちり塗られた化粧はなかなか落ちてくれない。
「なんで、落ちない……」
 鏡を睨みつけるように見るが、そこに見えるのはいつもの自分じゃない自分の顔。自分の知らない自分がいるようで、気持ちが悪かった。
「ユーリ」
 洗面台がずぶ濡れになる頃、コンラッドに声を掛けられた。手にはタオルを持っている。
「コンラッド、どうしよう。いくら洗っても落ちないんだ」
「そうでしょうね。化粧には落とし方というものがあるんですよ」
 そう言うと、コンラッドは手に持っていたタオルで水に濡れたおれの顔を拭き始めた。すると手にしていた小瓶から乳白色の液体をてのひらに垂らすと、それをおれの顔に塗っていく。指の腹でくるくると頬の上を滑るように塗ると、それは鼻筋から額へ、フェイスラインを辿って顎へと移動していく。
「目を瞑って下さい」
 そう言われて目を瞑ってじっとしていると、今度は瞼を指が滑った。敏感な場所に触れられて、思わず目がぴくりと動いてしまうが、彼の言ったとおり瞳は固く閉ざしたままだ。しばらくすると濡れタオルで顔を丁寧に拭かれた。もういいですよ、というコンラッドの言葉を合図に、おれは目を開けると慌てて鏡をもう一度見る。
「取れてる! ……でもなんか、ちょっとベタベタするな」
「いつも通り、石けんで顔を洗えば元通りですよ」
 コンラッドに言われたとおりに、石けんを泡立てて顔を洗えばいつも通りのすっきりした肌に戻った。鏡の中の自分もすっかりいつもどおりの表情で、思わず安堵の溜息をつく。それと同時に鏡の隅に映るコンラッドの顔を見て、おれは顔をしかめた。
「ごめん、おればっか。あんたも落とせば?」
 コンラッドに向き直って、おれと同じ運命を負わせてしまった彼の唇を指差す。
「え? ああ、別に平気ですよ。それより、そのままじゃ風邪を引いてしまうから、早く服を着て下さい」
 唇に塗られた淡いベージュの紅に執着を見せないコンラッドに、おれは何となく面白くなくてつい拗ねたような口調になってしまう。
「あんたみたいなモテ男はそういうの慣れてんだろうね」
「何言ってるんですか」
 心外だとばかりにコンラッドが少しだけ目を丸くする。
「だって口紅なんかしてたっていいことなんかないだろうに、平気だなんて言うからさ」
 そう、コンラッドの言葉を聞いて、おれは自分がとても子供のように思えたのだ。
「いいこと? ……なくはないですね」
 含むような間を置いて答えたコンラッドにおれはますます面白くなくなり、彼が手にしていた自分のシャツを奪うように取り上げ、そのまま洗面所を出ようとしたところで力強く腕を引っ張られた。
「うわっ」
 いきなりのことで上手くバランスが取れず、床に倒れこみそうになったがそこはコンラッドに上手く腕を引かれることで、床ではなく彼の胸に収まることになった。すると、露わになったままの鎖骨に唇を押し当てられた。
「ちょ、何すんだよっ」
「いいこと、ありますよ」
 コンラッドの唇が離れた鎖骨には淡いベージュの目立たないキスマーク。
「いつでも消せる印がつけたい放題だ」



 このときの彼の表情が、おれは当分忘れられそうにない。


(2010.02.14)


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