「貴方の感じてる時の声は可愛いですよね」
早朝の爽やかさそのままの笑顔でそう言い放った恋人を見上げる。
未だ裸のままで寝台の上に転がっている状況なので、そう可笑しなタイミングでは無い。だが、ユーリは剣呑な目をして眉を寄せてしまった。
「ユーリが可愛いと言われるのが嫌いだとは分かっていますよ」
「……いや、そうじゃなくって、かなり複雑だ」
「何が?」
「声は、って言った」
「ああ、何だ、そんな事ですか」
「可愛いは嫌だけど、声に限定されるともっと嫌だ」
ユーリの“嫌”は、“恥ずかしい”という変換が正しい。本人には教えずにコンラートは一人楽しんだ。
口先で「恥ずかしい」と喚く女より、ずっと可愛い。無自覚に全身で訴えかけてくれる彼に、頬の筋肉が蕩けてしまいそうだ。
「何でそんな事言い出すんだ、最中ならともかく!」
「またその気になっちゃいますか?でも、もうタイムリミットですよ。会議の前に打ちあわせするんでしょう?」
「ばーか、誤魔化されてなんかやんねーよ」
呆れた声を発しながらユーリは枕に顔を埋めた。その気になってしまったのは本当なのを気付かれたくは無くて。
それを気付いているのかは分からないが、コンラートはくすりと声を漏らして笑った。
「普通男の高い声なんて聴いても気色悪いだけだろ、何とち狂ってんだか」
「おや、俺の声も気色悪いって思いますか?」
正直に言うと、そんな事を考える余裕が未だに無い。後から考えてもよく思い出せないし、どうも記憶が可笑しい気がする。体を重ねている間は日常から逸脱しているような感覚を感じる。足が地に着かない、存在が不明瞭な。
しかし切り替えは簡単だ。眠りに落ちて次に目が覚めた時は世界が元通りに戻っている。恐らく恋人の顔付きや声色が変化しているからだ。つまり、あの可笑しな空間は恋人が作り出しているという事なのだろう。
だから今朝もいつも通りに爽やかな笑顔で「おはようございます」という言葉を期待していた。いつも通りの一日が始まる筈だった。けれど目を覚まして直ぐに感じてる時の声が云々と耳元で言われてみろ、絶対体内の何かが狂う。
そう、そのせいで今日一日のおれは何処かが可笑しい。
あまり大きな変化では無い、傍目から見て多少の違和感を感じ首を傾げる程度の違いだろう。
けれどユーリ自身は気味が悪くって仕方無いのだ。何一つするにしても勝手が違う。
書類に向き合っていれば首や背中が痛い気がするし、書名に違和感がある。廊下で城働きの女性とすれ違う時は慣れた仕草で手を上げるけれど、何か変だ。
原因がアレだと分かっているのに、何でこんなに違和感を感じるのかが分からない事が堪らない。
「ベッドの中での気分、引き摺っちゃいました?」
だから、こんな事を二人になった執務室で言われた時は動揺が激しかった。顔の表面は仕事の顔を保っていたが、声が震えたのでばれているだろう。
体裁が悪くって向けてしまった顔を慌てて書類に戻した。
「仕事中だ、名付け親」
「貴方がそんなだから名付け親に徹する事が出来ないんですよ」
「…そんなってどんな?」
何を返されても全て無視すると決めていたのだが、気になっていた答えを知っているような発言に流し切る事が出来なかった。意志薄弱な自分を情けなく思う。
コンラートは言葉を発する権利を得た事に満足してか、分かり易く笑んだ。仕方なく顔をもう一度向けてやる。
「早く抱いて欲しいって全身で言ってるようですよ、魔王陛下」
「はぁ?あんた今日絶対変!やめてくんない?人が真面目に書類捌いてる時に」
後ろからコンラートは書きかけの書類を覗きこんできて笑いやがった。長くこの世界にいる割に字がのたうっていて悪かったな、と怒鳴ろうと思った時、彼は先に「違いますよ」なんて言ってきた。考えている事が伝わったらしい。
「本当に分かり易い方だ、何をそんなに恥ずかしがる事があるんですか」
「恥ずかしがる…?」
言っている意味が分からない。決めつける言い方をされて多少むっとした。
「いつもよりずっと猫背で首が下がっていました、それから字がこんなにも小さい」
首や背中が痛い理由も、書名に違和感があるのも理解出来るが、何故恥ずかしがっている事になるのだろう。
「それからね、声が小さいんですよ。極端に。だから皆不思議な顔をするんです」
「ああ成る程!」
とユーリは手を打ったが、原因であろう朝の会話を思い出して次の瞬間には顔を引き攣らせた。
「そんなに恥ずかしかったんですか?声が可愛いと言われるのは」
「“声が”じゃねぇだろ、“声は”だろ」
「朝の失言を根に持たないで下さいよ、ユーリ。貴方の曲がった背骨も傾いた文字も愛おしいと思うのに」
「…本当だ、傾いてる」
書類を掲げて顔を顰めているユーリを見て、そこを気にして欲しかったわけでは無いのだが、とコンラートは息を吐いた。
それに気付いたユーリは握ったままの羽ペンをペン立てに置き、椅子ごとコンラートに向き合った。しかし顰めっ面のままだ。
「ユーリ?」
「…あんたのせいだからな」
漸く口にした言葉はそれで、続きをコンラートが促すと彼は幾らか小さな声を発する。
「あんたが朝からあんな事言うからいけないんだ。どうして今日に限ってあんな事言ったんだよ」
少し剥れている彼が、それでも頬を紅潮させているのが如何にも可愛くて、顔を素早く近づけた。突然の事に驚きの表情をしたユーリだったが直前で止まった事に喉を鳴らす。それは期待からだろうか、衝撃からだろうか。
「貴方はいつまでも昼間は綺麗なままだから、ちょっと苛めてみたくなったんですよ」
至近距離で告げられる言葉は囁き声で、多少夜の色気を含んでいた。だからより近くに寄った顔に、次何が来るのか察して瞳をぎゅっと閉じる。
だが、
「………え?」
目を丸くしながら恋人の顔を凝視した。
「何を想像しました?」
何て奴だと罵りるが、自分の想像に恥ずかしさが極まっていた。
まさかあの雰囲気で頬にキスする奴がいるか!
「だって執務中でしょう?」
未だ未だ良いように遊ばれそうだと大きく肩を落としながら、楽しげに笑っている男から目を背けた。
write:10.02.20
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