眠る前のひとときを、訪ねてきた主と他愛のない話をして過ごしていたはずのコンラッドは、目の前の状況を見下ろして、小さく息を呑んだ。
「すみません」
眠りを妨げぬ程度の飲み物と菓子を用意し、今日の出来事や明日の予定、不在の間の互いの世界の話、そんな取り留めのない会話を交わして、部屋へと送り届ける。
それは考えるまでもない変わらない日常。
変わらないはずだったのだ、ついさっきまでは。
それとは異なる今に、現実味が感じられないのはコンラッド自身がどれほど望んでも手に入らないものだと知りながら見る夢と同じだからだ。
寝台へと縫い止めた手首は力を込めれば折れてしまいそうなほど細かった。
見上げてくる漆黒が湛えるのは恐怖でも不快感でもなく、まるでこの状況が理解できないかのように、ただ「どうして?」と問いかけてくる。
「見ないで、ください」
見透かすような視線を受け止めきれず、近くにあったタオルを手にとり、視線を遮った。
臣下として、名付け親として、傍らにあることが幸福だったのに、いつしか芽生えた欲張りな心がそれだけでは満足しない。彼の幸せを願いながら、いつだって笑顔であることを願いながら、その笑顔が他者に向けられることが許せない。想うだけで幸せであると同時に、積み重なっていく感情に気付いてもらえない事実に苛立ちを覚える。
それは抱えてはならない想いだ。
彼に向けるそれは、温かな感情であって、黒い…どろどろとしたものであってはなないのだ。想うことさえ罪であると自覚しながらも、止めることができない。誰よりも大切にしたいはずの子供を、こうして押さえつける。
「なぁ、コンラッド」
「は、い」
名前を呼ぶ声一つで、息苦しくなるのを感じながら、コンラッドは掠れた声を返した。
視線を遮ってもなお、たった一声でこんなにも囚われる。
「これ、はずしてくれ」
「駄目、です」
見せられるはずなどない。外した先にあるのは、彼の好む名付け親でも、親友でもないのだから。
「すみません」
すみません、と繰り返しこぼれる謝罪は、布を外してやれぬことに対してか、許されぬ想いを抱えることに対してか、それともこれから強いる行為に対してか。
口にするコンラッド自身にも分からぬまま、縫いつけていたユーリの手を取る。今の自分は、彼を守る騎士などではないから、手の甲へと触れる代わりに、手のひらへと懇願の口づけを捧げた。
「…っ、はぁ…」
逃がさぬように、布を外してしまわぬように。服を脱がせる合間、身体へと触れる合間に、指を絡めあった。
ほんの一瞬でも離さぬよう絡める仕草はまるで恋人同士のようでさえあるのに、ユーリの目は何も映さない。目元を覆うたった一枚の布が、この行為が異常であることを教えていた。
身に纏うのは、与えられた目隠しだけ。晒された肌をコンラッドの唇が辿っていく。両手が使えぬ不自由さを埋めるように、丁寧に唇が触れ、吸い上げ、舌先がくすぐり、時には歯を立て。
「ぁ…、コンラッ…」
首筋や胸元へ触れたかと思うと、今度は伸び上がるようにして唇を塞ぐ。空気を求めて開いた唇の間に入り込んだ舌に、歯列をなぞられればくすぐったいような感覚に背筋がぞくりと震えた。
丁寧な愛撫は、優しいというよりは、壊れものを扱うかのようだった。たとえば宝物庫にある細工のように、少し力を込めただけで壊れてしまうような。
「ど、して…ん、っ…」
動きを封じ込める手でさえ、力を掛けすぎぬようにと気遣われている。だからこれは、傷つけようとしての行動ではない。そのことに気づきながら、ユーリは混乱する頭で考える。
何故、どうして。
問いかけにはやはり返事が与えられることはなく。一方的な愛撫に、ただ小さく身体を震わせることしかできない。
いつだって穏やかな笑みを浮かべて傍らにいた。、見落としてしまいそうなほどの一瞬だが時折覗かせた思いつめた表情をユーリは思い出す。
少しずつ増えていくそれの理由を問いかけても、笑顔しか返されなかった。呑みこんだ言葉が、どんなものであろうとも聞きたいと願うのは傲慢か。
「あ、やめっ…」
唇が下へと降りていくほどに身体がこわばる。臍からさらに下へ、やがて唇が性器へと触れると、思わずつないだままの手に力が籠もり、甲へと強く爪を立てた。
濡れた感触が、先端を擽る。二度、三度。繰り返すうちに、刺激が強まり、そして生温かい感触に包まれると耐えきれずに身を捩る。
「ぅ、ぁ…。や、コン、ラッド…」
人に触れられたことなどない。ましてや、こんな風に唇でなど。
助けを求めるはずの相手が、今の状況へと自分を追い込んでいるはどうしてなのか。それとも、いま自分を追いつめているのは、コンラッドではない誰かなのか。けれど、握りしめたこの手を間違えるはずがないという自信が、ユーリをさらに混乱させる。
「ぁあ、っ…ぅう…」
「外さないでくださいね」
握っている手が離された。離れる温もりを寂しく思えたのは一瞬。
絞りとるように口の中で抜き差しされる。一方的な行為をやめさせたいのに、意識を裏切ってどんどんと性器が張りつめる。
さまよう手が空を切り、すがるものを求めてシーツを強く握りしめた。
細長く折り畳んだタオルが顔の半分を隠す。その下にある漆黒は、涙に濡れているのだろうか、それとも恐怖で堅く閉じられているだろうか。今は隠れた表情豊かな瞳を思い起こして、コンラッドは目を伏せた。
どうして大声を出して助けを求めないのか。やめてという声は小さく、抵抗というよりは戸惑いが勝っていた。強い否定がないのをいいことに、それを力でねじ伏せた。
「すみません」
「…ぅ、ぁ…あ…」
何度目か分からない謝罪が、彼のためではなく自分のためであることを自覚し、苦い笑みが浮かぶ。
目隠しを外してくれとは言うけれど、外すなという言いつけを守ってか自らは手がけない。許されているとも受け入れられているとも思わない。この行為の意味を、どう捕らえているのか。
知りたい感情は、コンラッド自身が巻いた布によって遮られ、伺い知ることができない。
腰を揺らすと、つながった場所から水音が響いた。その度に、くぐもった声を漏らして、ユーリが頭を振る。
「すみま…せん」
「っ…ん、コン…、ぁ…うごかなっ…やぁ…」
きつい締め付けに息を呑み、ともすれば搾り取られてしまいそうになるのを軽く唇を噛むことでやり過ごす。同じようにかみ締められた唇に気付いたコンラッドは、止めさせるため唇を舌先でなぞった。
「んんっ…ン…」
こじ開けるようにして唇の中へと舌を差し入れ、余すことなく内側を舐める。苦しそうな声さえも呑みこんで、ただ深く深く。思うままに貪って、ようやく唇を離す頃には、二人分の唾液に濡れて赤く色づく唇や、顎を伝い落ちる唾液がひどく綺麗に見えた。
疼く下肢が求めるままに、腰を揺らす。苦しくないようにと気遣えたのは最初だけ。小さかった動きが、欲望のままに大きくなる頃には、ユーリの唇は紡ぐのは意味のない羅列ばかりとなり。
「ぁあ…っ、はぁ…ぁああ」
与えられるものを受け止めきれずに零れる声が、耳に心地良く響いた。
先ほど唇で愛した性器を握り込むと、悲鳴じみた声が上がる。とろみを帯びた蜜を塗り込めるようにして擦り上げると、それもやがて甘さを含むものへと変わるから、コンラッドは反らされた喉を食いつくように唇で食んだ。
「すべて、俺が悪いんです。ユーリ」
だから優しい貴方が煩う必要などない。
これですべてが終わる。秘めていた想いをぶつけてしまった。二度と触れることも姿を見ることさえかなわない失うことへの絶望と、苦しいぐらいの想いから解放されることへのわずかな安堵と。
きつい締め付けの中、ギリギリまで引き抜いては、最奥を穿つ。様々な感情をぶつけながら、コンラッドは細い身体を強く抱きしめた。
声が聞こえた。
「…リ、ユーリ」
何度目か分からない声が、自分の名を呼んでいるのだとようやく気付く頃には意識がはっきりとして、下肢の違和感にユーリは思わず顔を顰めた。
「…っ、ぅ…」
ヒリヒリとした痛みと熱を感じる。まだ繋がったままのそこが、僅かに身じろいだだけで水音を立てる。やがて、ゆっくりと内から異物が抜け出ていく感覚に、肌が粟立った。
どうするべきか。返すべき言葉を探して思考をめぐらせていると、滴が頬に落ちた。
ぽたり。
雫を舐め取ると塩辛い味が舌に広がる。
ぽたり、ぽたり。
続いて落ちてくる雫は、そのままゆっくりと頬を伝い落ちていった。
「泣くな」
「汗ですよ。泣いているのは、あなたではないのですか?」
目元に押し当てられたタオルがすべてを吸い取る。確かに涙は出たけれど、それは悲しかったからではない。
闇の中で手を伸ばす。
「違うよ。泣いてるのは、あんただ」
「泣いてませんよ」
肩に触れた指先が肌を辿り、頬を包んだ。涙が流れていないのだとしても、確かに泣いていたと確信しながら、汗とも涙とも分からない濡れた後を何度も擦る。
「大丈夫だよ、コンラッド」
「すみ、ません、ユーリ」
背へと回された腕が縋るように強くユーリの身体を捉えた。重みを感じるまま好きにさせながら、頬から離れた手でタオルへと触れた。もう、いいだろう。
「隠すから、何も伝わらないんだよ。伝わらないから、苦しくなるんだ」
顔が見たい。
ユーリの言葉に、見せまいとしてコンラッドの頭が肩に押し付けられた。痛いほどに強く。けれど、結ばれた布を外す手は遮られることがないから。ユーリはゆっくりと、視界を遮る布を外した。
急に明るくなった視界に、目が眩む。
「大丈夫だよ、コンラッド」
隠す必要などない。誰も、責めたりなんてしない。あんたは悪くない。大切なものを隠して言葉だけを重ねたところで、何も伝わりはしない。
最初から、全てを許しているのだと伝えるべく、ユーリは肩に乗せられた顔を上げるようにと促した。