スズメバチ



ねえ、もっと突き刺して――



 踏み出した先には床が無かった。
 ぎゅっと身体中の神経がすくむのと、二の腕を確かな力で引き寄せられるのは同時だったけれど、勢いのついた身体を引きとめることまでは叶わない。ユーリはコンラートを巻き込んで奈落へと落ちていく。
 強い力で抱き込まれるのと息が止まりそうな重力を感じて、永遠にも感じる一瞬が過ぎると衝撃に襲われた。
 どん、と身体中で聞いた音のわりに痛みをあまり感じないのはユーリの下にコンラートが入り込んだからだった。
 短く呻くのを耳にして、血の気が引く。
「コンラッドっ」
 おそるおそる身体を退けるが。
「あなたを乗せるのには慣れていると思ってましたが」
 なんて減らず口を叩く様子にほっとした。痛そうに顔をしかめていたが、あっさり立ち上がったところからして怪我もないようだった。
 天井を仰ぎ見る。結構な高さから落ちたわりにダメージが少ないのは、足下が良かったからだ。
 かさかさ乾いた音を立てる、薄紙のようなものが積み重なって、枯葉の上を歩いているような具合だった。
 薄暗いそこは血盟城の東に位置する元迎賓棟。天然記念物のクマハチが毎年産卵しにやってくるため、巣箱扱いになって数十年が経つ。
 研究者や係の者以外は基本、立ち入り禁止とされているのだが。散歩と称してちょっと姿をくらましている最中、うっかり護衛ともども巣穴に落ち込んでしまったのだった。
「あーあ…」
 ずっと昔にだが一度落ちたことのある場所で二度目をやらかした落胆に溜息が出る。
 しかもあの時は三日目に助けが来たが、今回は共に落ちているし。
「どうすんだよー」
 ユーリは服の埃を払いながら巣穴の中を見回した。天井の穴から射す光でぼんやりあたりが浮かびあがる。
 広間の床全面にクマハチが脱ぎ捨てた繭の残骸があるわけでなく、残っているのはわずかだった。たまたま落ちたところに少し厚めの層が出来ていて、自分達は――主にコンラートだが、怪我を免れたらしかった。
 飼育係がきちんとしているのか、はたまた繭をカルシウム源にするという骨飛族の仕事か、案外巣穴は清潔に保たれていた。だがあまり長居したい場所でもない。
 前回は渇きに負けて三日が限度だった。
「じきに魔王の不在に気付いて、捜索隊が組織されるでしょう。日暮れまでには死に物狂いで探しだされますよ」
 夜会の予定を持ち出されてそちらにもうんざりする。
「そういえばコッヒーが居ないな」
 彼らの伝達能力によればあっという間に居場所を突き止められるだろうに。
「オフシーズンですから」
「食い残しかよ」
 乾いた繭の残りをつま先で突いていたら。
「動かないでユーリ!」
 突然に鋭い言葉を掛けられた。
 何?とゆっくりコンラートを振り返ったときだ。
「痛っ」
 ひきつるような痛みを感じて腕を返して見る。手首よりももっと上、たくし上げた袖口の、ぎりぎり際あたりに黄色と黒のだんだらの腹をした蜂が張り付いていた。赤ん坊のこぶしほどもあるそれにぞっとする。
「わぁ」
「無理に抜かないで」
 コンラートが制止したけれど間に合わなかった。刺された恐慌で、反射的にユーリは払い落そうとしていたから。
 二度三度と強くはたいてからコンラートの忠告に動きを止めたけれど、その時には腕から外れた蜂が石の床を転がっていた。
 腕を取られて袖のボタンが飛ぶ勢いで袖をたくし上げられて、見ればそこには針が突き刺さったままになっていた。小さな針がまだひくひく動いていて、気味悪さにざっと肌が粟立った。
「地球のクマンバチと姿は似ていますが針の形状が違うんです。かえしが付いていて一度刺されば簡単には抜けない。無理をするとこんなふうに針だけが残ってしまう」
 口早に説明するコンラートの表情は険しかった。そして何かを決めたようにふっと短く溜息をついた。
「放っておくと毒が廻る。一刻も早く針を取り除く必要があります」
 コンラートはユーリを比較的明るい場所を選んで座らせた。
 胸ポケットから折り畳みの小刀を取り出すのに察してユーリは頷いた。
 コンラートが為すことに疑いは持てない。自分を護るべき立場の彼が、害を加えるなどあり得ないのだから。
「頼むよ」
 コンラートは「ここを…強く押さえていて」とそれまで自分が押さえていた患部より心臓に近い部分をユーリに握らせた。
 そして自分は手早く上着を脱いで、シャツの左肩を摘まむと小刀で切れ目を入れる。勢いよく袖を引きちぎるとユーリが押さえていた部分に巻き付けて、きつく縛る。
 これからのことを予感していっそ痛覚も判らないほどに痺れてしまえば、と思ったユーリは注射の類いが得意ではなかった。
 刺されたところは既に赤く腫れ始めていた。その中心、針の際へと小刀の先が当てられる。
 つい逃げようとしてしまうユーリの手首を支えるコンラートの左手に力が込もる。
「目を閉じて。見ないでいらっしゃい」
 そうだな、とぎゅっと瞼を閉じると同時に冷たく感じる痛みが走った。やわい肉に金属がずぶずぶと埋められるような感覚がして肩が揺れる。
 実際の痛みよりその嫌悪感の方が酷くて身体が震えた。
 そんな恐怖に堪らなくなって目を開けたら、小指の先ほどに切り開かれ、一筋血を滴らせるそこに刃先が当てられて、ちょうど黒い針がえぐり出されるところだった。
 声を飲み込んで慌てて目を瞑る。だけど網膜に焼きついたその色彩は強烈で。
 すうっと手足が冷たくなるような心地がして息が苦しくなった。はふっと喘いだら後ろに引きずり込まれる気がした。
「ユーリっ」
 がくん、と拘束された腕に引きとめられて覚醒するが、今度はぐるぐる地面が回って気分が悪くてならない。ぐずぐずと崩れる代わりにコンラートの方へ倒れ込んだ。肩に抱きとめられてほっとして、気が抜けたらまた何も判らなくなった。
 しかし気を失っていたのは一瞬のことで、肌を吸い上げられる感覚に目が覚めた。そんなにしたら痕がつく――ぼんやりしながら文句を言おうとしたら、性的な行為よりももっと確かに痛みが強くて、切開した箇所から毒を吸い出しているのだと気がついた。
 口を離したコンラッドが吐き捨てたのが赤い色をしていて、また気分が悪くなりそうだった。
「そういえばさっきクマンバチって。クマハチじゃなかったのかよ。ここに住んでんのは」
 抱いて寝たい珍獣ナンバーワンの愛玩動物の姿は見当たらない。
「産卵の時期じゃありませんからね。クマンバチはたまたま紛れ込んだんでしょう。元々眞魔国には生息していなかったのですが、交易の荷物にくっついてくるらしく最近被害の報告が上がってきています」
「被害って、毒の?」
「ええ――大抵は赤く腫れあがる程度で済むのですが…魔族の場合はもっと激しい症状を引き起こすらしくて」
「それでさっき慌ててたのか」
 濁すのにそういうことかと納得しそうになったが、コンラートは否定した。 
「いえ、死亡例の報告はありません。錯乱したり幻覚をみたりという…――なんともありませんか?」
 覗きこんでくるコンラートの心配そうな表情がくすぐったい。
「なんともない」
 さっきは貧血を起こしかけたのは血の色に当てられてだ。
「蜂は黒いものを攻撃する習性があるから」
 そう言ってコンラートはユーリの髪を梳いた。
 どうしてか、それに皮膚の下がざわついた。そんな状況ではなく、意図も含まないのに。
 気まずさに触るなと言いかけて、でもと思い直す。
 ユーリは目を閉じコンラートに寄りかかった。不足しがちな睡眠時間を補うという名目で。
 望み通りコンラートはユーリの身体を抱き込んで、あやすように髪を撫でる。
 静かにさらりさらりと手が滑る。
 慣れ親しんだ安らぎに満たされて、すぐに眠気が訪れる。はずが。
 いつもならすぐに眠くなってしまうコンラートの匂いが、さらに何か違うスイッチを入れてしまったようだった。上着を脱いだシャツ越しの体温も宥める手も、神経を高ぶらせるばかりで。
「コンラッド」
 胸に顔を埋めたまま呼びかけた。
「はい?」
「えっちしない?」
 繰り返し撫でていた手がぴたりと止まる。
「だって暇だし」
「したいんですか」
「したい」
 顔を上げたらコンラートはちょっと困っていた。
「…嫌ならいいよ」
 拗ねてみせると「そうじゃありません」とコンラートの手が頬を撫でた。嗜めるそれだって今は性感を刺激されたかのように感じる。
「さっき言ったでしょう? 錯乱や幻覚って」
「フツーにあんたが見えてるだけだぞ。それとも、いつも程度にカッコいいとかいうあたりが既に幻覚?」
 幻だという鼻梁を指で辿った。
「毒のほとんどは吸い出しましたから」
 その下の薄い唇をなぞる。
「なに、それってつまりはヤリたくっておかしくなっちゃうってこと?」
 そりゃあ凄い。
「まともに食らえば冗談では済みませんよ」
 だけど表情を消して諭すのは、結構コンラートだってその気になっている証拠だった。
「あんたのお蔭でこの程度で済んでるよ」
 シャツの袖を包帯代わりに巻き付けた腕で引き寄せる。コンラートの膝の上で身じろいで、むずむずする身体を押し付けた。
 もちろん何の用意も無かったので、コンラートのに唾液を絡めて埋め込んだ。
 ユーリが身を屈めてしゃぶっている間に指で拡げられていたものだから、案外苦痛もなく受け入れることが出来た。擦れながら入っていくのがいつもよりはっきりと感じられて、脳天まで痺れた。
 随分な表情を浮かべていたらしくて、じっと見つめるコンラートの目の色が変わる。
 誰のせいでこんな身体になったと思ってる――居たたまれない視線を塞ぐように、引き寄せて唇を重ねた。
 剥き出しの左腕を撫でて肩を引っ掻く。前のボタンも上から順に外していった。弛めた首筋に鼻を埋めたら、くすぐる匂いにぞくぞくした。長い時間をかけて少しずつ作りかえられた身体は、これに誘引されては抗えなくなっている。
 腰をゆすりながら、胸に手を這わす。綺麗に浮き上がる鎖骨をはみ愛撫する。
 喉が動くのを見れば嬉しくなる。
 細かくキスを落としながら胸の先に吸いつけば、つむじにあえやかな息が零されて腹の中の性器が膨らんだ。
 なんだかひどくそそられる。もっと感じさせてやりたくなって、指先と舌で苛めていたら、残念ながら肩を掴んで引き剥がされた。
「俺ばっかりじゃ申し訳ないから。ほら、ユーリも気持ち良くなってください」
 ぐいぐい腰を送られて喘いだ。
 彼の腹にあたって中途半端な刺激を受ける性器だって堪らない。もっと、と擦りつけて、だけど足りない。
 コンラートの手をとって導いたら、仕返しのように彼が耳元で囁いた。
「ご自分で抜いてみせてごらんなさい」
 ユーリに握らせて。
「嫌だよ、触ってよ」
 甘えるみたいに頬を胸に擦りつけたけれど、喉の奥で笑うばかり。
「見ていてあげるから」
 上からコンラートの手が覆ってユーリの指ごとに愛されたなら、もう堪える気も失せる。
 コンラートの上で揺れながら、同じリズムで手を動かす。
 どこまでが自分ので、どれが彼のか。もはや定かではない十本の指が絡み合い熱を煽る。
 ぬめる感触に脳髄まで溶けてしまいそうだった。とろりと溶けて、流れ出す意識。体液よりももっと比重の重い、蜂蜜みたいなのが皮膚の下を流れている気がする。
 巻きつけたシャツの下の血の色は、今なら黄金色なんじゃないかと思う。きっと喉が焼けるくらいに甘くてかぐわしい。
 コンラートの手に達して、あの掌の中にだって――なんて馬鹿な夢想をしていたら、ぞくぞくと震えが走って身体の内が痙攣した。
 はっきり知覚する杭の存在は熱くて、もっと穿たれたくて唇の動きで懇願した。
 ――動いて。
 きつく抱き込まれて追い上げられる。耳に注ぎこまれる荒い息遣いも堪らない。
 ユーリ自身だってはあはあ喘いで、息が苦しいくせに唇を合わせた。彼の唾液だってとろけるみたいに甘くってくらくらする。
 口を離して見つめ合った表情も甘い、甘い。
 遠くの方で呼ぶ声が聞こえてきたのは、すっかり事後の睦言を交わすのまで済ませて、そろそろ腹が減ってきた、なんてぼやいていた時だった。
「ここに居る!」
 コンラートの叫びは届いたらしく、捜索隊のざわめきが真っ直ぐ近づいてくる。
 助かった、と安堵と共に立ち上がって、身繕いを終える。
 髪が乱れていたらしくてコンラートの手が伸びた。もう大丈夫かと目が問う。
「無防備なあんたと二人っきりで時間を持て余さない限りはな」
 声も無く笑いあって、締めくくりにキスをひとつ。やっぱり、蜂蜜みたいに甘かった。




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