be indulgent


 バタンと無遠慮な音をたてて重厚な扉を開いた大賢者は、予想とは異なる室内の様子に内心で首を傾げた。
 国の頭脳ともいえる王の執務室。
 てっきり泣き言を言いながら書類に埋もれているであろう魔王をからかいに、もとい、応援しにきたのだが。
「ふーん」
 予想通りの書類の山に埋もれて、けれど予想に反した真剣な表情で魔王は書類に向かっていた。
 試験前日の一夜漬け勉強でさえ二言目には「もうダメだ」と泣き言を漏らす彼が、今は少しだけ大人びた王の顔をしている。
「おもしろくない」
 それは予想が外れたことに対してか。それとも、わざわざ訪ねてきた自分に気づかないことに対してか。
 壁際のカウチへと腰を下ろすと、行儀悪く肘掛にもたれかかりながら、大賢者は黙々と執務をこなす魔王を観察することにした。

 室内には魔王と護衛、そして宰相がいた。
 宰相の机には魔王以上の書類が積み上げられている。大賢者の来訪に気づいてちらりと視線を寄越したものの、すぐに視線を書類に戻しそれ以上の反応は示さなかった。
 護衛は魔王の後ろに控えていた。魔王とは違い、しっかり気づいているのにこちらへ見向きさえしない。
 別に会話をしたいわけでもないが。
 午後の執務室は、とても静かだった。書類を捲る音と、ペンの音、そして時折外から聞こえてくる鳥の鳴き声ぐらいしかしない。
「おもしろくない」
 再び呟きを漏らしながら、大賢者は机にしがみ付く魔王を眺める。
 書類から視線も上げずに、黙々と羽根ペンを動かす。何にでも一生懸命がモットーの彼らしい。いつまで続くかは分からないが集中力はあるようだ。
 王様らしくなっちゃって。
 流れるようにとはお世辞にも言えないが、一枚ずつ着実に書類を片付けていく。
 文章を追う視線が、解読できない文字によって時折止まる。その度に、控えていた護衛が後ろから何かを囁く。読めなかった言葉の意味だろうか。
 普通に喋ればいい。ここは魔王の執務室で遠慮する必要なんて無いのに。わざわざ屈んで耳元に囁く、その甘ったるい親密さのようなものに胸焼けがする。
 魔王は一言も言葉を発していない。尋ねてもいないのに、護衛が答える。驚くべきは護衛の察知能力なのか、それを当たり前と受け入れてしまっている魔王にか。
 識字率が低いせいだけではない、専門用語が多いこともあってそれなりの頻度で繰り返されるやり取りを見るたびに、大賢者の目がおもしろくなさそうに細められていく。
 書類の山が一つなくなった。
 けれど、習慣のようにそれまで山があった位置に魔王の手が伸ばされる。何もつかめずに終わるはずだったそこに、護衛が新たな書類を一枚差し出した。
 当たり前のようにそれを手にして、サインの続きが始まる。
 なくなった山の位置に、護衛がそっと別の書類の山を移動させた。
 砂糖菓子でも食べさせられているような気分だ。
「おもしろくない」
 もう何度目かもわからない呟きを漏らす。
 相変わらず、それに返事を返す者はいない。
 王佐か三男閣下あたりがいれば面白かったのにと、大賢者は彼らがここにいないことを残念に思った。

「フォンヴォルテール卿」
 魔王は相変わらず大賢者に気づかない。護衛とは会話する気にもならない。多分、向こうも同じ気持ちであろう。
 ならばと、消去法で残った宰相閣下の執務机へと向かい、大賢者は無遠慮に呼びかけた。
「いかがされた、大賢者殿」
 話しかけられた宰相閣下は、多忙だけとは言い切れぬ理由から眉間の皺を増やし、けれど弟のような無礼な態度をとることもなく手を止めた。
「いつも、ああなの?」
 口に出す気にもなれないそれが、この眉間の皺の原因の一部になっているのではないかなどと、自分のことは棚にあげて尋ねる。
「あれか」
「そう、あれ」
「あれで執務が捗るならば、何も言うことはない」
「ふーん」
 確かに捗っているようだけれど。
「見てて胸焼けしない?」
 肯定することも否定することも出来ずに、宰相は黙って魔王未決裁と記されたトレイから書類の山をどけた。
「それ、次に渋谷がサインする書類じゃないの?」
「明日でも構わん」
 今日の執務は、現在魔王の机上にある書類で終わりにしてくれるらしい。
 大賢者を待たせてはいけないという気遣いより、大賢者の相手をさせられたくないという思いからか。けれど、それよりも、魔王の頑張りに対する譲歩だろう。
「甘やかされちゃってるね」
 大賢者の呟きに、宰相殿は小さく息を吐き出した。
 振り返った魔王は、相変わらず真剣に書類と…国政と向き合っている。
 直接話しかければ、彼が手を止めることも、自分との休憩を選ぶことも知っている。だからこそ、こうして待っていられるのだ。
「つまんないね」
 早く終わらせてくれないかなと呟きながら、大賢者は再びカウチへと腰を下ろした。
 書類は後わずか。終われは、楽しい時間が待っているだろう。護衛の存在は気に入らないが、それをからかった時の親友の反応を思い浮かべれば、自然と口元が綻んだ。


海朱春姫さま(HSSD)へ相互リンクの記念に
(2010.01.10)