現在(1)


 いつもならば湯あたりを心配されるほど長く浸かる風呂から、ユーリは早々に飛び出した。
 過保護な名付け親に、今夜は疲れているだろうからあまり長湯をしないようにと釘を刺されたからじゃない。
 急がなければ。彼がいなくなってしまうかもしれないと思ったからだ。
 焦る気持ちが手つきに表れ、身体を拭くのも適当に、寝間着が濡れるのも気にせずに脱衣所を後にする。
「コンラッド!」
「そんなに慌ててどうしたんです? まだ濡れているじゃないですか」
 驚いた顔でこちらを見る名付け親の姿を見つけたユーリは、ようやくほっと息を吐き出した。
「よかった。まだ、いた」
「そりゃあ、いますよ」
 当然だと言わんばかりだが、彼は時々信用ならない。
 部屋の外には夜勤の兵士がいるのだから、コンラートの今夜の仕事はユーリを部屋に送り届けたところで終わってもいいのだ。
「ちゃんと拭かないと風邪をひきます」
 中途半端に拭いただけの髪から、落ちた水滴が首筋を濡らす。思わず首をすくめたユーリに気付いたコンラートの手が、ユーリを椅子へと誘った。
「早くしないと、あんたが部屋に戻っちゃうと思ったんだよ」
「戻りませんよ。待っててって言ったのは、陛下じゃないですか」
「陛下ってゆーな、名付け親」
「そうでした、ユーリ。ほら、拭きますよ。夏とはいえ、このままにしておくのはよくない」
 適当にガシガシ拭いただけの髪を、改めて丁寧に拭かれた。ぽんぽんと軽く叩いたり、ぎゅっとおさえたり。優しくて繊細な手つきがくすぐったくて、少しだけささくれだった心がまるくなる。
 されるがまま身を任せるユーリは言葉を発していないのに、コンラートにはわかってしまったのだろう。
じっくりと時間をかけユーリの機嫌が直るのを待ってからタオルを外したコンラートが、ユーリの前で膝をついた。
 両手が、一回り大きな手に包まれる。小さな傷のある指先が、大切な宝物にでも触れるように手の甲を撫でるささやかな刺激を受け、ユーリはわずかに身じろいだ。
「改めて。お誕生日おめでとう、ユーリ」
 ずるい。名付け親に対して、ユーリは時々そう思う。
「……ありがとう」
 ここで陛下なんて呼ばれていたら、きっとめちゃくちゃに彼を怒ることができたのに。名前を呼ばれてしまったら、全部許してしまいたくなる。
「おれは、わがままなのかな」
 目の前のコンラートを見つめながら、漏らした声は意図せず途方に暮れたものになった。
 握ったまま離されることのない手と、ユーリに真っすぐ向けられた銀の星に続きを促され、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「降誕祭のパーティー、すごく楽しかったんだ」
 いつも通り突然の呼び出しによりやってきた眞魔国で、せかされるまま着替えた後は、文字通りのお祭り騒ぎだった。ずいぶん前から準備してくれていたのだと分かる盛大なパーティーでは、たくさんの人に誕生日を祝ってもらった。
 あちこちからもらう「おめでとう」の言葉は気恥ずかしくもうれしかったし、山になったプレゼントの包みに胸が弾ませ、こうして一生懸命になってくれる人たちの存在がありがたかった。
 だからこそ、ユーリはパーティーを思い出して眉根を寄せた。誕生日を祝われたばかりの主役がする表情としては、失格だと自分でもわかる。
「あんたはおれの護衛なのにって思ったんだ」
 パーティーの最中、コンラートはユーリの傍にいなかった。少し離れた壁際から視線を感じていたけれど、護衛ならばそんな離れた場所ではなく一番近くにいるべきだ。職務怠慢といっていい。
 楽しかったのも、うれしかったのも、本当。でも、壁の方を気にしてばかりいたことが、ユーリの心に罪悪感を残した。
「あんたが隣にいないのが嫌だったし、あんたに一番に祝って欲しかった」
 わがままなのかな? と、ユーリはもう一度、呟いた。
 王様業も板についてきたつもりだったのに、いまだに彼が絡むとうまくいかない。
「だって、あんたは……」
 名付け親で、恋人なのに。
 甘えを孕んだ拗ねた声は、ユーリの心そのものだからこそ、口にしたあとで恥ずかしくなった。らしくない。逃げ出してしまいたいのに、両手を握られていてはそれも叶わない。
 子供じみた主張に呆れただろうかと伺い見たコンラートの表情に、ユーリは顔を曇らせた。
「なんで驚いた顔してるんだよ。おれ、散々あんたの方を見たよな?」
 目が合うたびに、微笑まれた。ユーリの気持ちなんて知りもしないで、魔王を祝うにぎやかな雰囲気を、彼は楽しんでいたのかもしれない。
「当然って顔して、傍にいてくれないと困るんだよ」
 そうじゃないと、楽しさが半減してしまう。
 ユーリの訴えに、コンラートは恭しく頷いた。
「次からは、間違えません」
「うん」
 こんなにヤキモキさせられた身としては、原因である彼が嬉しそうな顔が腹立たしくあるのだが、両手を握る手の強さが彼の誓う気持ちの強さを表していると思えば、もう怒ることはできなかった。
「明日、改めてみんなにお礼を言わないとな」
「はい」
 お供します、というコンラートの宣言に、ユーリは当然だと頷いた。


(write:2019.07.22/up:2019.09.01)