現在(2)
「何か欲しいものない?」
突然すぎる質問に、コンラートは危うくカップから紅茶をあふれさせるところだった。
「欲しいもの、ですか?」
突然どうしたというのだろう。
コンラートの名付け子であり、護るべき王であり、恋人でもある質問の主は、時々こうして突拍子もなくコンラートを驚かせることがある。どういった答えを求められているのかわからず首をかしげてみせると、彼がじれたように唇を尖らせた。
「だって、おれの誕生日を祝ってもらったけど、あんたの誕生日を祝えてないからさ」
椅子に腰かけたユーリの足が、彼の不満を表すようにゆらゆら揺れた。
魔王陛下の誕生日は、城をあげて祝宴が催された。突然呼び出されるなり始まったパーティーに、最初は目を丸くした彼も、すぐにみんなに囲まれて楽しそうにしていた。
その件について、後でユーリから怒られることになったのだが、申し訳ないと思うと同時にコンラートにはうれしい思い出となっている。
「本当は事前に準備できたらよかったんだけど、呼び出されてすぐパーティーだったし、次の日からいきなり書類漬けだし。このままだと、祝えないままどんどん遅くなっちゃうから、こうなったらあんたに直接なにが欲しいか聞いてみるのもありかなって」
降誕祭が終わるなり執務に追われる姿は気の毒だったが、疲れた顔をしながらも、そんな風に考えてくれていたとは。
「気持ちだけで十分ですよ」
「ダメダメ!」
すでに十分にプレゼントをもらった気持ちなのだが、返事がお気に召さなかったのだろう。そういうところがダメなのだと畳みかけてくるダメ出しに、さすがのコンラートもたじろいだ。
このところ、彼の中の評価が下がっている気がするのは気のせいか。
「何かないの? 欲しいもの」
言われて思い浮かぶのは、目の前の彼のことだけだ。そういえば、観客が増えて危ないから球場にネットが欲しいと言っていたっけ。
「野球関連のものは、国技として認められた以上は国費から出るし、ダメだぞ」
喜ぶべきか悲しむべきか。先を越されて、苦笑が漏れた。
「困りましたね」
「ほんとにない? 欲しいものが思いつかないなら、して欲しいことでもいいよ」
「うーん」
して欲しいこと。したいこと。
そんなのは、とっくに叶っている。こうして彼の傍にいられること、彼がそれを望んでくれていること以上に、コンラートが望むものなんてないのだ。とても、満ち足りている。
彼は納得しないだろうが。
「そうですね……」
どんな答えが貰えるのかと期待に満ちた視線を向けられてしまえば、答えないわけにはいかないだろう。
顎を摩りながら、考える。
視線の先では、一心にこちらを見上げるかわいい姿。黒くて艶やかな大きな瞳が、いまにも零れ落ちそうだ。
無意識に伸ばした指先が、気づけば頬に触れていた。柔らかな感触を確かめると、くすぐったかったのかユーリが首をすくめて小さく笑う。
「なんだよ、もう」
「すみません、つい」
かわいくて、という誉め言葉は喜ばれないと知っているので心の中にとどめておく。
「ちゃんと考えてる?」
「考えていますし、思いつきました」
ちょっとした思い付きだが、悪くない。むしろ、これ以上の案がないように思えた。
欲しいもの。そして、彼からしかもらえないもの。
「え、なに?」
早く聞かせろと飛びついてくる彼へと笑いかけるコンラートは、少し悪い顔をしていたかもしれない。
「あなたからのキスが欲しいです」
「へ?」
ぽかんと目と口を大きく開けた顔さえ、この人がすればかわいく見える。
「ユーリからのキス」
理解が追い付かない彼へともう一度告げて、コンラートは固まる恋人の手を取った。バッドを振り込んだ成果の胼胝を撫でてから、手の甲へと口付ける。
ちゅっという軽いリップ音に反応して、ユーリの耳から頬にかけて鮮やかな朱がさすのを見て、コンラートは笑みを深めた。
「ダメですか?」
「いや……」
即断即決がモットーの彼にしてはめずらしく歯切れが悪い。
予想していなかったのだとよくわかる。感情を隠すことを知らない表情は明らかに動揺していた。
「無理なら……」
「いや、無理じゃないから!」
自分が口にしたことには責任を持つ。ご両親の教育のたまものだろう。彼はいつも真っすぐだ。そういうところが好ましくもあり、心配でもある。
自分のことを棚に上げながら、ますます彼のことを気を付けなければと思わずにいられなかった。
「やる」
勢いよく立ち上がったユーリと距離が少しだけ縮まった。とはいえ、頭ひとつ分の差は大きくて、彼が背伸びをしても埋めきれない。
「……えっと、届かないからあんたが座って」
「はい」
さきほどまでユーリが座っていた椅子に、促されるままコンラートが腰を下ろした。今度はこちらが見上げる側だ。
相変わらず顔が赤い。熟れたいちごのような、いまにも甘い香りがするかもしれない。座った分だけ低くなったコンラートを見下ろすユーリの唇からは、時折「あー」やら「うー」やら、言葉にならない音が聞こえる。
キスは、何度もしてるのに。
記憶にあるユーリは、いつも唇を触れ合わせる瞬間に、ひどく緊張をしていた。強く目を閉じて、呼吸を忘れることさえある。
先日も唇が離れた後で、「慣れない」と困った顔をしていたっけ。ただ、そんな時でさえ赤い顔のまま照れたように笑うものだから、コンラートはユーリに緊張を強いることを止められないのだが。
ユーリの手が、コンラートの肩をつかむ。きゅっと力が入り小さく震える指先が、彼の緊張度合いを伝えていた。
「ユーリ」
たかがキスだなんて言えない。だって、ユーリとするキスはいつだって特別なのだ。
少し、無理をさせてしまったかもしれない。ガチガチに緊張した彼は、コンラートが唇にして欲しいなんて言っていないことに、彼は気づいていないだろう。
「いいから、黙って」
出そうとした助け舟は、口にする前に彼の方から断られてしまった。
「目を閉じろよ」
「……はい」
本当は一瞬だって見逃したくないのだが、このままではどれだけ待っても実行することができないと分かるから、コンラートは言われるままに瞼を伏せた。
目を閉じていても、彼の視線を感じる。
「……」
きっと、あまりの恥ずかしさに困っているに違いないし、焦ってもいるかもしれない。でも、やめようとは思っていない。
もう、いっそこちらから抱きしめて口づけてしまえたら。
ユーリにそんなつもりはなくとも、焦らされているように感じた。僅かに身じろぐと、途端に動かないでと叱責が飛ぶ。
彼の心臓の音まで聞こえてきそうだ。呼応するように、コンラートの心臓も早鐘を打った。
「する、から」
喉が鳴る音は、果たしてどちらのものだったか。瞼越しに射した影が、ユーリの顔が近づいてきたのを伝えてきた。
「……ん」
触れたのは、ほんの一瞬。
ユーリからの初めてのキスは、キスと呼ぶには不器用すぎる、押し付けるような触れ合いだった。
「……」
「ぷはっ……したからな!」
目を開けると、目の前の恋人は肩で息をしていた。真っ赤な顔は、息苦しさだけが理由じゃないと知っている。
コンラートはこんなにかわいい人を他に知らない。
「……ありがとうございます」
感触を逃がさぬように、持ち上げた手のひらで唇を覆った。
「じゃ、おれは執務に戻るから!」
逃げるように駆け出したユーリを、コンラートは追うことができなかった。
「参ったな」
一人になった部屋で、小さく呟く。
ユーリは気づいていないだろう。彼の熱が伝わったかのように火照った頬が落ち着くまで、コンラートはそこから動くことができなかった。
(write:2019.07.22/up:2019.09.01)