我侭な恋人
ぱらり、ぱらり。
定期的にページを捲る音だけが響いた。
手にしているのは、いまや大長編となった毒女シリーズの最新刊。巻数を重ねれば重ねるほどにページ数も怖さも増していく、恐ろしい作品だ。
手に汗握って真剣に読み進めていると、擽るように背中に何かが触れて、身を捩った。
「邪魔すんなよ」
「すみません」
「悪いと思ってないだろ」
本をずらせば、その下にある顔と目が合う。人の膝を枕にした男は、上着を脱いで寛いだ様子で、好き勝手にあちこち人の身体へ触れていた。
「コンラッド」
「はい」
僅かに怒気を含んで低い声を出してはみるが、気にされた様子もない。本に夢中だった視線が向けられたことに気を良くしたのか、にこやかに笑う男は今度は人の髪を一房手にとり、見せつけるように口付けた。
「あんたなぁ」
「ユーリが悪いんですよ。最近、ずっと本に夢中だ」
「だってこれ、面白いんだもん。もうちょっとで読み終わるから、待ってよ」
機嫌をとるべく、ダークブラウンの髪に触れた。一緒に伸ばすかと提案したのはいつだったか。最初の長さが違ったので、おれより少しだけ短い。とはいえ、結べる程度には伸びた髪を指で弄ぶ。心地良いのか、目を細める仕草が遠い昔に飼っていた犬を思い出させた。
「仕方ないな。明日は邪魔すんなよ」
「はい」
嘘か本当か判らぬ返事をひとまず信じることにして、手にしていた本をテーブルへと置いた。
するのもされるのも気恥ずかしいなんて感慨は、もう何十年も前にどこかに消えた膝枕。最近ではされることよりも、することの方が増えてきたような気がする。甘やかしすぎている気がしなくもないが、大して柔らかくもないそこで、とてもリラックスしているのが分かるので、ついつい許してしまう。
他愛のない会話を交わす、のんびりとした時間を破ったのはノックの音だった。
「どうした?」
こんな時間に尋ねてくるのは、緊急の用事だということだ。
「申し訳ありません。本日中に確認していただきたい書類がありまして」
「ああ」
入っていいよと言いかけて、ふと膝の上の男と目が合った。明らかに先ほどと纏う気配が違う。
「ちょっとコンラッド、どいてくれない?」
「嫌です」
「少しだけだからさ」
この状況を見られるのは構わないが、見せられる方が嫌だろう。書類を受け取り、中身を確認して、サインする。ほんの数分の譲歩を求めたのだが、素気無く断られて天井を仰いだ。
「じゃあ、サインの邪魔だけはするなよ」
言い聞かせてから、入室を許可した。
「お休みのところ、申し訳ありません」
「仕方ないよ。あんたも遅くまでご苦労さん」
夜遅くに確認を求めるほど急ぎの書類のはずだが。それを持つ文官の足取りがひどく重いのは、おれの気のせいではないんだろうなと苦笑が漏れた。
見たところまだ百にも満たないだろう青年は、どうやらその若さ故に就寝前の魔王の寝室まで書類を持ってくるという大変名誉かつ恐ろしい仕事を任されたらしい。
「あ、あの」
「ああ、はいはい。すぐ確認するから、ちょっと待ってて」
「は、はい」
かわいそうに、声が恐怖で震えている。
背筋が凍えるような視線を受けて固まる文官は、不自然なほどに視線を上向けていた。
書類へと視線を移す。さほど長くない文章を読み進める間、背中を這う何かからは努めて意識を逸らした。
念のためにと三度読み返してから、受け取ったペンで署名を入れた。手渡してやると、蛇に睨まれたカエルのように青くなっていた文官は走り去って行った。
これがトラウマにならなければいいが。
ルッテンベルクの獅子にあんなに睨まれては生きた心地もしなかっただろう。
「あんまり、脅してやるなよ」
「仕方ないでしょう。あなたとの時間を邪魔するんですから」
「こっちこそ、仕方ないだろう。仕事なんだからさ」
「分かっているから、邪魔はしなかったでしょう?」
背骨に沿うように這っていた手が下りて、腰を強く抱きしめられた。
「ほんと、我侭に育ったなぁ」
おとなげないにも、程がある。
「あなたのせいです」
「なんだそれ」
他人を頼らなくてもなんでも卒なくこなす男が、時折甘えてくるのが嬉しかった。ほんの些細な、たとえば膝を貸すだとか、髪を撫でるだとか、何でもないことを求められるのも、求められたことを与えることができるのも自分だけだという自覚が、余計にだ。
求められるままに与え続けた年月の結果が今の状態なのだというならば、確かに膝の上の男の我侭に育った責任はおれにもあるのかもしれない。
後悔先に立たず、だ。
「コンラッド、おれ、喉渇いたな」
「……」
「仕事したら疲れた。あんたが淹れた紅茶が飲みたい」
少しだけ声音に甘えを含んでお願いすると、本当にしぶしぶと言った風に、先ほどまで頑なだった男が起き上がった。
我侭に育ったけれど、こうやっておれに甘いところは変わらない。だから、つい我侭を許してしまうのだ。
「すぐ戻ってこいよ」
ぎゅっと一度だけ。先ほどされたように腰に抱きつけば気配が和らぐのが分かる。
部屋を出て行く背中を見ながら、明日のロードワークは中止かなと考えているおれも、相当に甘いかもしれない。
(write:2010.07.22/up:2011.07.22)