彼の笑顔


「陛下!」
 肩を掴まれ振り返ったユーリも、その談笑相手も驚いていた。
 だが、それ以上に驚いていたのは二人から視線を向けられたコンラートの方だった。
 護衛としての仕事を行うためには、誰よりも冷静でいなければならない――はずだった。正装に身を包んでいようともあくまでも自身は夜会の客ではなく、仕えるべき魔王の護衛。賓客をもてなすのも魔王の仕事。仕事をこなす主の邪魔をせぬように、ただし、その身をいつでも守れるようにと、つかず離れずの距離に控えていたのだが。
「……失礼しました」
 考えるよりも先に身体が動いていたのだ。
 肩にかけたまま固まってしまった指先へと意識を向け、ゆっくりと外していきながら背中を嫌な汗が伝う感覚を覚える。
 目を丸くしたユーリは不思議そうに護衛を見ており、自分が肩を掴まれた理由にも、先ほどまで談笑していた男が伸ばしかけていた手を下したことに気づかない。
 手の早いという男の悪評について、耳に入ったことはあってもきっと頭には残っていないのだろう。無防備な彼は、自分が他人からどのように見られているかなど考えもしない。
「コンラッド?」
「すみません」
 何でもないというのは苦しい言い訳だ。意外と聡いところがある主に対してどう取り繕おうかと思案しながら、視線を逸らすことだけは何とか堪えて見つめ返す。永遠にも感じる数秒の後、コンラートに対して彼がとったのは意外な行動だった。
 逃げ出したいというコンラートの内心を見透かすように、彼の手が腕にかかる。
「えーっと、すみません。少し用事ができたようなので、これにて失礼します」
 年若く美しい王に微笑まれてしまえば、否と言える者などいるはずもない。先ほどまで言葉巧みに取り入ろうとしていた男は、引きとめる言葉も忘れて呆けたまま肯くしかなかった。
 そのような男に笑いかけてやる必要などない、などという独占欲にも似た感情を抱えたコンラートの気持ちを知ってか知らずか、振り返った彼は護衛の腕を放さぬまま会場を後にした。



 廊下に出てしまえば楽の音も遠い。ホールのまばゆい光の中にいたせいか、いつもより暗く感じる廊下を、コンラートは陰鬱な気持ちで主に続いていた。
 先を歩く彼は振り返ることも、コンラートに問うこともしない。それが更にコンラートの気持ちを重くする。問われたところで、返す言葉もないのだが。
 彼の言った用事がありもしないことは、コンラート自身がよく知っている。コンラートから尋ねることなどできるはずもなく、目的地である彼の部屋へと付き従うしかなかった。
 部屋に戻ってドアを閉めれば、微かに聞こえていた音楽も完全に止んだ。
「なあ、コンラッド」
「……」
 ソファの前で足を止め、座るでもなくコンラートに背を向けるのは、マントを外してほしいという合図だ。
 深紅のマントは、双黒を際立たせる。彼の美しさが引き立つようにと数時間前にコンラートが着せた。その願い通りに、夜会では誰もが彼に目を奪われていたのだが。
「なーってば」
「……はい」
「はずして。もう重くってさ」
 誰もが彼に惹かれる。外見だけではない。その内面も、彼に近づき彼を知れば知るほどに。そのことを喜ばしく感じる半面、そうやって魅せられていく人々への嫉妬めいた感情も募るのだ。
「はい」
 マントを外して皺が寄らぬように腕にかけた。まだ、彼はコンラートの行動について何も問わない。
 ただ、重しのなくなった身体からゆっくりと力を抜き、背後に控えるコンラートの胸へと凭れかかった。
 身の回りのことを侍女にさせるのは、王ならば当然のこと。だが、彼はそれを良しとしない。ただ一人、コンラートにだけこうして身を任せてくる。コンラート自身がそうして欲しいと願った通りに。
「すみません」
 すぐ目の前に旋毛が見える。肩の凝りをほぐすように左右に首を倒すのに釣られて視線が追った。
「なにが?」
「ご歓談の邪魔をしてしまいました」
 首の動きはすぐに止み、コンラートの視線が中央に定まると同時に彼の頭が上向けられ、逆さになったまま視線が絡まった。
 美しいですねと褒めながら、コンラートが自らの手で整えた彼の髪に触れようとした男が許せなかった。咄嗟に手を出してしまう程に、我を忘れて。
 目を丸くしていた彼は、コンラートの意図に気付かない。告げたら笑うかもしれない。それぐらい、別にいいじゃないかと。
「ああ、いいよ。あの人、誰だっけ? ナントカ卿、悪い人じゃないんだけど、話が長いし、やたらと人のこと褒めるし、なんかむずがゆいんだよな」
「ですが……」
 主役が抜けてしまっては問題だ。ましてや、コンラートは邪魔をしていい立場にはなかった。
「もうすぐパーティも終わりだろ。あとはグウェンがうまくやっておいてくれるさ」
 片手にマントを持ったまま。空いた手は中途半端に宙を彷徨い、凭れかかる彼の身体を支えるべきなのか、支えても良いのか分からぬまま触れられずにいる。ただ彼が頭を預けた胸だけがわずかに熱を持ち、コンラートを悩ませた。
「それで、あんたは何を怒ってるわけ?」
「怒ってなど」
「隠してもだめ。怒ってるよ。なんか、さっきからずっと不機嫌だもん」
 怒っているつもりはなかった。怒りを向けなければならないのは、感情の制御ができない自身にだ。
 けれど。
「あなたが」
「おれが何かした?」
「あなたがあまりにも無防備だから」
 誰に対しても屈託なく笑顔を見せる。相手の下心にも気付かずに。
 彼がただの名付け子であれば、コンラートはただ守るだけで良かった。庇護すべき存在であれば。だが、彼はコンラートの都合で守られるだけの存在ではない。仕えるべき主だ。
「だって、危険なんてないだろう?」
 武器を向けられ、命を脅かされるのみが危険ではないことに彼は気付かない。
「大丈夫だよ、あんたが守ってくれてるんだから」
 そうやって当然のように残酷なほどの無邪気さで寄せられる信頼に、コンラートは眉をしかめ、宙を彷徨っていた手で彼の頬へと触れた。
「コンラッド?」
「無防備すぎるんです。だから、身近な危険にも気付かない」
 あの男よりも、よほど自身の方が罪深い。誰よりも強い信頼を裏切るのだから。
 怯えも不安もない。まっすぐな視線に吸い寄せられるように、顔を寄せていく。
「逃げないんですか?」
 息がかかる距離で問いかけたのは、躊躇ったからだ。今ならば、冗談で終わらせることもできる。
 あと数センチ――それが、コンラートの理性とためらいの距離。
「もし、他の人が同じことをしようとしたら、どうする?」
「あなたが止めても、切り捨てます」
 考えるまでもない。先ほど、コンラートが取った行動がまさしくそれだ。きっと、冷静でいられるはずがない。
「切り捨てるのはちょっと……でも」
「ユーリ?」
 コンラートが躊躇った距離を詰めたのは、彼の方だった。不安定な体勢のまま引き寄せられた唇は端を掠めとる。
「……っ」
「ずれた。この体勢じゃ無理があるな」
 驚き、目を見開くコンラートを見上げ、いたずらが成功した子供のように笑う。
「他の人にされるのは嫌だけど、それはあんたが守ってくれるんだろう? だったら、危険なんてないじゃん」
 コンラートへと向き直った彼の、夜会の席でみせたものとは異なる楽しげな笑みは、コンラートだけが知るものだ。
 残酷なほど無邪気に。
 その笑みに一番魅せられているのは自身だと身を持って感じながら、マントを落としたことにも気付かぬほどに強く彼を抱きしめた。


(write:2012.07.22/up:2013.07.22)