甘やかな幸福


「疲れた」
 言わなくても自分自身がよく分かっている言葉をあえて口にするのは、労るように頭を撫でてくれる手が欲しかったからだ。
「お疲れさまでした」
 風呂上がり、髪を乾かすのもそこそこにベッドにダイヴした。魔王陛下の寝室に置かれるにふさわしいベッドは、国で一番大きくてふかふかと言っても過言ではない。普段は広すぎて落ち着かないのだけれど、こういう時にはすごく良いなと思う。
「ほんと疲れた」
 久しぶりのスタツアだった。これまで音沙汰がなかったにも関わらず急に呼び出されたのにはやっぱり理由があって、それは目に見える形で執務室の立派な机に積み上げられていた。好きで溜め込んだわけじゃない、なんて言い訳は通じるはずもないから、あとはただひたすらに手を動かし続けた。
「あーもー、明日もあの書類と向き合うのかと思うと、憂鬱だよ」
「あと半分ぐらいまで減ったじゃないですか。もうひと頑張りですよ」
「ううう、辛い」
 一緒に嘆いて欲しかったわけじゃない。でも、にこにこと笑顔で言われるのも、他人事みたいで嫌だ。実際、こればっかりは変わってもらうわけにいかないんだけど。
 これ見よがしにため息をついたら、ベッドが軋んだ音を立てた。遠慮がちに隅っこに腰を下ろしたコンラッドが、おれの頭にタオルを乗せて、中途半端に濡れたままだった髪を拭き始めた。
「風邪をひきますよ」
「それもいいな。そうしたら、あんたが看病してくれるんだろ?」
「ええ、もちろんつきっきりで。リンゴは擦り下ろしたのとウサギの形にカットしたのと、どちらがお好みですか?」
 どちらも用意してくれるのがコンラッドだ。それを想像して、「両方」と答えたら欲張りですねと笑われた。
 その笑う声まで優しく響くから、たまらなくなる。
「甘えてごめん」
「いいんですよ」
 彼はいつもそうだ。彼だけはいつも、おれが吐き出す弱音をぜんぶ受け止めてくれる。あまりに自然だから、どんどん歯止めがきかなくなりそうで怖い。
「そうやって、コンラッドが甘やかすから、更に甘えちゃうんだ」
「俺にだけ甘えてくれるなら大歓迎ですよ。そうすることで、ユーリはまた明日も頑張ってくださるのでしょう?」
 拭き終えたらしく、タオルが外された。優しい手が離れていくことが寂しくて、寝返りをうつふりをして身を寄せた。少しだけ縮まった距離は触れあうほどではないけれど、体温を感じそうなぐらいに近くて、くすぐったい。
「ちぇ。そんな風に言われたら、頑張らないわけにいかないじゃん」
 サボりたい気持ちはもちろんある。実際に今日だってペンを握っている間、ずっと集中できていたわけじゃない。それでもなんとか頑張れたのは、少しだけ芽生えた魔王の自覚と、ありがたくなるほどナイスなタイミングでコンラッドがお茶を運んできてくれるからだ。
 明日も同じようにやれる自信はないどころか、すでに今から憂鬱でしかなかったのに、コンラッドに応援されたら頑張らないわけにいかないという気持ちになってくる。
 本当におれって単純。
「ええ、頑張って。終わったら、一日お休みをもらって遠出しましょう。城下でもボールパークでも、どこへでもあなたの好きなところへお連れしますよ」
「マジで?」
「マジです。グウェンにはもう許可を貰ってありますよ。あとはユーリが頑張るだけです」
 釣られて身体を起こしたら、にっこり細められた瞳と視線がぶつかった。おれの中に少しだけあったやる気が、コンラッドの言葉によって一気に膨れ上がる。そんな変化まで全部お見通しなんだろうな。
「本当にあんたはおれを甘やかすのがうまいよな」
「そんなことないですよ」
「そんなことあるんだよ」
 単純だと思われていたらと考えれば悔しいけれど、実際に単純なのだ。でも、同時にこの笑顔を見てしまうと幸せだからいいかなとも思ってしまう。
「あーもー、今日は疲れたから寝る」
「ええ、そうですね。明日も早いですし、今日はゆっくり休んで」
「だから、あんたも一緒に寝よう」
 ここで寝ろと隣を叩いた。幸いにも魔王のベッドは二人でも広すぎるほどで、まだまだ余裕がある。コンラッドのベッドで二人で眠れるんだから、ここで寝れないわけがない。
「俺も、ですか?」
「そう。今日のおれは一人じゃ寝たくない気分なの。甘やかしついでに、ここで寝ていって」
 嫌だとは言わせないぞと挑むように見つめた先には、さっきと同じように笑うコンラッドがいた。おれの心配は杞憂に終わったらしく、「少しだけ待ってね」と立ち上がったコンラッドが部屋の明かりを消してすぐにベッドへ戻ってきた。
「俺がユーリを甘やかすのがうまいのなら、ユーリは俺を喜ばせるのがうまいですね」
 おやすみの挨拶の後で彼が言った言葉は、あまりにも恥ずかしいものだったから眠った振りをしてきかなかったことにした。
 けれど、おれを喜ばせるには十分すぎる効果を持っていて、やっぱり彼はおれにすごく甘いと確信を強めるのだった。


(write:2012.07.22/up:2013.07.22)