彼の背中


 早朝に目が覚めた。
 とはいっても、意識は半分も覚醒していない。寝ぼけながら、肌に感じる空気や瞼越しの明るさからまだ早い時間だと判断して二度寝を決め込み、温かい身体に擦り寄った。
 そうすると、当然のように抱き寄せてくれる腕があることをおれは経験上知っていて、今朝もいつも通り背中に腕がまわされた。
「……?」
 いつも通りのはずなのに、何かがいつもとは違う。
 おかしいと感じたのはおれだけじゃないようで、おれの背後にまわった手が何かを確認するようにペタペタとあちこちを移動しはじめた。
 そもそも、コンラッドはおれの右側で眠るのが常なのに、なぜ今日は左側にいるのか。
 違和感が膨らむにつれて眠気が消えていく。開くことを拒絶していた瞼を持ち上げたおれは、目の前の顔を見て、残っていた眠気まで吹っ飛ばした。



 魔王の部屋の中には、グウェン、ギュンター、コンラッド、おれの四人がいた。
 ヴォルフがいないのは、昨日まで帰省していた愛娘のグレタが留学先に戻るのに合わせて、一緒に出かけてしまったからだ。おれも行きたかったけれど、王が他国を訪問するにはそれなりの準備が必要だと怒られ、涙を呑んだ。
「何が起きた」
 いつもより三割り増しに深い皺を眉間に刻んだグウェンが低い声で問いかけてきた。視線の先には、並んで座らされたコンラッドとおれ。ギュンターはおろおろしながら、おれたちを見守っている。
「えーっと」
 正直なところ、おれにも何が起きているのかわからない。なんと言ったものかと隣を見たら、おれよりも落ち着いている彼の方が説明を始めた。
「原因は分かりませんが、今朝、目が覚めたら入れ替わっていました」
 隣にいるのは、おれだった。この国では珍しい黒髪黒目の見た目はどこからどうみてもおれ。でも、しゃべる口調も表情もおれじゃない。彼は、自らをコンラッドだと名乗った。
 そして、おれは自分の膝元を見た。視界に入る両手も、膝も、おれじゃない。それなのに、おれの意思の通りに、膝にかけていた手のひらは拳を握る。
 小さな傷をたくさん作った大きな手は、バット胼胝やペン胼胝とは明らかに違う位置に硬い胼胝をいくつも作る剣士の手だ。
 今朝、鏡で何度も確認したおれの姿は、コンラッドのものだった。
「本当に分からないのか? 昨日、アニシナからおかしな食べ物や薬品を渡されたり、おかしな実験器具を取り付けられたりしていないのか?」
「グウェン……」
 原因が赤い悪魔と決まったわけでもないのに……。この言い草からして、彼の普段の苦労がうかがえる。非常事態だというのに、おれたち二人の同情的な視線を感じたのか、グウェンが咳払いを一つした。
「特におかしなこともなかったと思いますよ。俺はいつも通り一日ユーリの護衛をしていましたが、アニシナには会っていない」
「うんうん、会ってないよ」
「他に心当たりはないのか?」
「うーん……心当たりって言ってもなあ。コンラッド、なにかある?」
「特にないかな」
 いつものクセでコンラッドと呼びかけると、隣のおれが考え込むように顎に手をあてた。普段の自分がしないポーズだ。
 ものすごい違和感から目を逸らし、昨日、昨日……と昨日のことを思い出す。
 これといって、何事もなかった、はず。
 朝はいつも通りコンラッドに起こされて、一緒にロードワークに出た。朝とはいえ夏の強い日差しの中、海に行きたいなんて他愛のない話をしながら並んで走った。その後は、午前中の執務を免除してもらい、留学先へ戻るグレタを港まで見送りに出た。午後からは悲しみの中で午前中の分まで執務に励んでいたのは、一緒にいたグウェンもよく知ってるはずだ。
「何もないなら、入れ替わるはずがないだろう」
「そう言われても……」
 夜だって静かなものだった。グレタとヴォルフが一度にいなくなってしまった部屋は静か過ぎるぐらいで些か寂しく、コンラッドの部屋に泊めてもらいにいって……まあ、それは言うと面倒なことになるからいいや。
「グレタのクッキー」
 隣にいるおれ……ちがう、コンラッドの呟きに、おれは顔を上げた。
「は? なに言い出すんだよ」
 三時のおやつに食べたのは、愛娘がおれのために用意してくれていたクッキーだ。あれはとても美味しかった。それはもう、食べてしまうのが勿体無いほどに。
「昨日グレタは早朝からアニシナの研究室に篭っていたはずです」
「アニシナ……」
「まさか」
 一同で顔を見合わせた。グレタが何かをするとは全く思えないが、そこにアニシナさんが絡んでくるとすれば話は別だ。なにしろ、彼女の発明品は成功・失敗問わずすさまじい。
 だが、残念なことに真偽を確認することはできなかった。アニシナさんもまた、グレタと一緒に旅立ってしまったからだ。
 こちらの行き先は、ヒルドヤードだけれど。女性の地位向上に燃える赤い魔女は、度々歓楽街を訪れているようだ。
 グウェンは彼女の行動の与える影響を心配しているようだが、ヒルドヤードからは感謝状が届いていた。きっと心配することはないはず。たぶん。
「どうしよう」
「そうですね……」
 隣を見れば、おれが神妙な顔つきでこちらを見ていた。
「とりあえず、鳩を飛ばして呼び戻すしかあるまい。大人しく戻ってくるとも思えんが、返事ぐらいは来るだろう。数日は、大人しくしていろ。無駄に混乱を招くこともない」
「はーい」
 よく分からないが、なってしまったものは仕方ない。大人しく返事を返したら、グウェンが複雑そうな顔をした。
 なんだろうと見つめ返せば、珍しく困惑した表情の彼に視線を反らされる。
「その姿で、だらしのない返事をするな」
「はいはい」
 わざとじゃないが、普段の言動なんてすぐに変えられるものじゃない。尚も小言が飛んできそうだったので、さっさと立ち上がった。
 だが、どうやら話はこれで終わりじゃないらしい。
「執務は大丈夫ですか?」
 おれなら絶対にしないような問いかけをしたのは、もちろんコンラッドだった。
「……ああ。どうしても急ぎのものがあれば持って来る。とりあえず、あまり人目につくな。お前はともかく、小僧はうまく立ち回れまい」
「なんだよ、それ」
 不満の声は黙殺された。視線が、コンラッドのイメージを崩すなと語っていたのだ。
「分かりました。では、なるべく人目につかないように、つく場合には悟られないように気をつけます」
「頼む」
 兄弟らしい呼吸でさっさと話をまとめてしまったコンラッドが立ち上がったから、おれはそっと彼の耳元に唇を寄せた。
 いつもなら届かないから絶対にこんなことできないが、今日ばかりは立場が逆だ。
「あんたのお兄ちゃん、ああ見えて実は兄馬鹿だな」
 小声だったはずの言葉は、ちゃんとグウェンにも届いていたようで、雷が飛んでくる前におれはクスクスと笑うコンラッドを伴って、彼の部屋に避難することにした。



「いつ戻るんだろ」
「なんとも言えませんね」
 ソファに座って、やわらかなクッションにもたれかかりながら大きなため息を吐いた。
 そんなおれを見下ろし、苦笑しながらお茶の用意をするコンラッドは結構落ち着いたものだ。
「なんであんたはそんなに落ち着いてんの?」
「落ち着いてなんていませんよ。どうしたものかと困ってます」
 まったくそう見えないんだけど。
 おれの姿をしたコンラッドは、優雅な手つきで紅茶を注ぐ。行儀悪く横になりながら、おれはそれを観察した。
 姿形はおれなのに、雰囲気からして違うのだ。なんというか、賢そう? うん、そんな感じ。
 対する自分はどうかといえば、グウェンの心配は無理もないかもしれない有り様だ。
 自分の頬に手をあて、何度か撫でてみる。いつもと違う肌触り。肉の薄い頬。
「どうしたんです?」
「んー、本当にコンラッドになっちゃったんだなと思って。変な感じ」
「ご不便でしょうが、しばらく辛抱してください」
「不便なのは、あんただって一緒だろ」
 目の前に出された紅茶につられて、起き上がった。カップを持ち上げようとして、改めて己の手の大きさに気づく。
 今着ている服だってそうだ。
 寒さ対策であったり、雨除けであったり、何度か借りたことのあるカーキ色の軍服はとても大きく感じたものだ。それこそ、腕を通せば指の先ぐらいしか出ないほど。なのに、いまは同じサイズの服がきっちりちょうど良い。
「不便と言うか、確かに困った事態ではありますね。護衛の対象が二つに増えた」
 コンラッドが隣へと腰を下ろし、自分の分の紅茶を引き寄せた。
「あなたの魂と、あなたの身体と、どちらも守らなければならないから、この身を盾にできない」
「冗談でも、そんなこと言うな」
 本当は冗談ではないことを知っている。ウェラー卿コンラートとはそういう男だ。だけど、おれはあえて冗談だということにした。
「あんたが慣れない身体で危ない目にあうといけないから、せいぜいおれも大人しくしておくよ。その方がグウェンも安心だろうし」
「そうですね。今頃は既にアニシナへ赤鳩を飛ばしてくれているはずですし」
 おれの気持ちを知ってか知らずか、コンラッドはおれらしくない微笑を浮かべて、自ら淹れた紅茶へと口をつけた。
 紅茶の味は、いつもと同じ。ただ、それを飲むおれたちだけが、いつもと違う。




 読書をしたり、お茶を飲んだり、突然の休暇をのんびり過ごす。
 急ぎの書類だけは、グウェンが部屋まで持ってきてくれたのだが「どっちがサインするの?」と聞いて叱られることになった。それ以外は概ね平和だ。もちろん、おれがサインをしましたよ。
 じっとしているのにも飽きて、立ち上がった。滅多に世話になることはないが、コンラッドの部屋には全身が映る姿見がある。毎朝、軍服の乱れを確認するのに使っているのだと、いつか聞いたことがあった。まるでお出かけ前のお袋のようだが、チェックにかける時間はまったく違うのだろう。
 おれは姿見の前に立ち、そこに映る姿を眺めた。
 鏡の中には、よく知る姿。今日は、いつもと雰囲気が違う。笑顔が足りないかなと思い、意識して口の端を引き上げてみたけれど、いつものコンラッドにはならなかった。
 姿形も声もコンラッドなのに、何が違うのかと首を傾げたところで、鏡の中にもう一人の姿が映りこんできた。
「いきなり鏡なんて見て、どうしたんです?」
 おれの姿をしたコンラッドだ。
 鏡越しに視線が絡む。だが、おれはすぐに視線を逸らしてしまった。
 この国の美的感覚は地球とは違うせいで、見た目を褒められることが少なくない。だが十六年育ってきた地球で、どこにでもいそうな平均的男子高校生だったおれは、おしゃれに気を使うより草野球でどろだらけになることに情熱を注いできた。つまり、鏡なんて洗顔や歯磨き、トイレぐらいでしか見る習慣がない。それも、せいぜい寝癖チェック程度。その寝癖チェックだって、コンラッドに一言聞けば済むどころか、聞く前から手櫛で直してもらえる状況だから、どうにもまじまじと自分の顔を見るのが気恥ずかしい。
 つい鏡の中のコンラッド、つまり今の身体の方を見てしまう。
 銀の星が散る不思議な瞳も、眉についた古い傷も、筋の通った鼻梁も、よく知っているはずなのに少し違って見えるのは、やはり中身が違うせいなのか。それとも、視線の高さのせいだろうか。
「普段もそれぐらい熱い視線をおくってくださったらいいのに」
「ばっ……」
 何を言い出すのかと隣を見れば、コンラッドは既に離れた後だった。
「さあ、そろそろ風呂にしましょうか。今日は一日部屋にいたとはいえ、疲れたでしょう」
 風呂の準備をてきぱきと始めたコンラッドの背中を見た。おれも立っているため、見下ろすこととなった身体が、悔しいことにとても小さく感じる。自分の旋毛を見下ろすなんて、なかなか出来ない経験だ。
 なんとなく、そう、本当になんとなくの好奇心で、おれはコンラッドの後ろへと近づいた。
「どうしたんです?」
 振り向く彼の身体に両腕を回してみる。突然のおれの行動に驚いたコンラッドは、振り向きかけた体勢のまま、固まっていた。
「ユーリ?」
「おれって、本当に小さいんだな」
 それなりに鍛えているはずなのに、逞しい胸と腕に包まれてしまえば、折れてしまいそうだ。
「まだ成長途中なんですよ」
 慰めに背へと回された体温は、コンラッドの低い体温と相まっていつもより僅かに高く、こんなところでも違いを実感させられる。
「さあ、風呂を済ませて、今日はもう寝てしまいましょう。明日の朝、目覚めたら元に戻っているかもしれませんよ」
「だと良いんだけど」
「きっと、大丈夫ですよ」
 おれの声なのに、口調のせいかやけに安心感がある。胸に顔を埋めて見えないながらも、おれが頷いたのが分かったのかコンラッド顔を上げた。
「そうだ。お風呂、一緒に入りましょうか」
「はい?」
「お互いに、慣れた身体を洗う方がいいかなと」
 にっこりと笑う顔は、やっぱりおれなのにおれじゃない。
「いや、いい! 一人で入る!」
 おれはコンラッドが用意してくれていた着替えを引っつかむと、風呂場に駆け込んだ。




 脱衣所で服を脱いでいく。
 軍服はその性質ゆえに堅苦しく、一日ですっかり凝ってしまった首を左右へと倒した。学ランも似たようなものかもしれないが、あちらには慣れがある分まだマシだ。
「なんつーか、本当に良い身体だよな」
 上着を脱ぎ終えたところで、持ち上げた利き腕の先、拳を強く握って腕を曲げれば、上腕二頭筋が盛り上がる。ヨザックほどではないが、しなやかな筋肉はおれがどれだけ求めても、追いつけないものだ。
 自分の姿を見てうっとりするナルシストな趣味はないが、鏡で見たコンラッドの身体は惚れ惚れするほどに、かっこいい。
 何度かポーズをとってから、下も脱ぎ捨てた。
 こちらについては、礼儀としてあまり見ないようにと視線が泳ぐ。
 見たことがないわけではない。ただ、見るような状況はいつもベッドの上なわけで……。
 自然と、その時の状況を思い出してしまいそうで、できることならば見るのを避けたい。
 おれはそっと腰にタオルを巻いて、風呂場へと移動した。
 湯気が立ち上る浴室で、身体を洗う。いつもと同じ手順で洗うのは、いつもより広い面積だ。スポンジで擦る皮膚のどこもかしこも小さな傷が目立つ。既に風化しかけた古い傷たちは痛みはないものの、無意識に擦る手つきが丁寧になった。
 痛くないのかと、何度か聞いたことがあった。わき腹の傷跡は特にひどい。くっついた肉が盛り上がる場所を撫でてみたが、本当に痛みがないことに、ほっとした。
 彼はおれに甘い。それ故に優しい嘘をつくから、時々ひどく心配になるのだ。
 左腕、右腕、胸、腹ときて、背中に続こうとして、思わぬ痛みに首を竦めた。
「いてっ。なんだ、これ」
 泡をつけて擦ったところがひりひりと痛む。背後をみようとするが、当然背中なんて見えるはずがなく、眉を顰めていると、いきなり浴室のドアが開いた。
「すみません、ユーリ」
「うわっ、なんだよいきなり」
「ああ、遅かったですね。背中、痛むでしょう?」
 急に入ってこられて驚いたが、入ってくる方は遠慮がない。既に泡だらけの背中を見て、痛ましそうに顔を歪めた。
「すみません、最初に言っておくべきでした」
「これ、なんなの?」
「まあ、ちょっと。名誉の負傷と言いますか」
 彼にしては、珍しく歯切れが悪い。
 濡れるのも構わずに、タイルの上に膝をついたコンラッドが、もう一つスポンジを手に取った。
「やりますよ」
 言うが早いか、そっと背中を擦り出す。自分でした時とは違い痛みがないのは、たぶん傷跡をうまく避けていてくれているおかげだ。
「あ、馬鹿。濡れるじゃん。ったく、しょうがないからあんたも一緒に入る?」
「良いんですか?」
「今日だけ特別な。おれも、あんたの背中洗ってやるよ」
「今日だけと言わずに、毎日でもお願いしたいですけどね」
 背後で嬉しそうに笑う気配がした。
「ばーか」
 身体が入れ替わっていても、こういうところは変わらない。顔を見なくたって、どんな表情なのか手にとるように分かるのは、やっぱり彼がコンラッドだからなんだなと思う。
 おれの背中を洗い終えたコンラッドは、脱衣所に戻っていった。すぐに服を脱いで戻ってきた姿を見て、改めて自分の身体の貧弱さを思い知る。
「もう少し、筋トレ増やそうかな」
「焦る必要はないと思いますけどね」
「持ってる人に、持ってない人間の気持ちは分からないんだよ。ちくしょー、たくましい身体しやがって。今度、グリエちゃんに秘訣をきいてみよーっと」
 残っていた両足を洗い終えたところで、交代した。
 座ったコンラッドの背後で、今度はおれが膝をつく。
 さっきまでコンラッドの身体を洗っていたおかげで、自分の背中が小さく感じる。
 寝る前の腹筋の回数を増やすことを心に誓いながら、背中を擦る。鏡を使わずに見る自分の身体というのは新鮮だ。
「あ、こんなところにホクロなんてあったのか」
 小さなほくろを尻の少し上あたりに見つけた。
 だが、それ以上に驚いたのはどことも言っていないのに伸びてきた手が、正しい場所を指差したこと。
「ここでしょう?」
「なんであんた知ってんの」
「そりゃあ、いつも見てますから」
 いつも見ている、という言葉の意味を考えれば、頬が熱を持つ。ついゴシゴシと擦る手つきが乱暴になったのだが、コンラッドからおれの身体なのだから丁寧に扱えと注意が入った。なんだそれ。普通は逆だろう。
 でも、そういうところがコンラッドらしいとも思う。本当に彼は、おれを過保護に扱いすぎる。うれしくもあり、くすぐったくもあり、恥ずかしくもあり。
 おれは怒られない程度に手早く背中を擦りながら、話題を変えるべく問いかけて、また自爆をすることになった。
「んで、コンラッドの背中の傷ってなんなの? 普通、こんなところ怪我しないだろ?」
 見えなかったが、小さな傷のはずだ。洗うと滲みたところからして、まだ最近のもののはず。でも、おれがこちらに来てから、ずっとコンラッドはおれの護衛をしていたわけで、こんなところに傷を作るような理由が思いあたらな――
「あああああああああああああ!」
「気づいちゃいました?」
 一つだけあった。思い当たった理由の、あまりの恥ずかしさに上がった悲鳴をコンラッドは否定するどころか肯定してみせ、おれはますます居たたまれなくなることとなった。
「本当にごめん。ってか、言ってくれたら気をつけるのに」
 これは、たぶん、おれがつけた傷だ。おれが、彼の背中に爪を立てた。
「だから、言ったでしょう、名誉の負傷だって。うれしい傷だから良いんです。これぐらい痛いうちに入りませんよ」
「でも、けっこう痛かったぞ」
「風呂だけ気をつければ良いんです。普段はほとんど痛みませんから。それに、思い出しても幸せな気持ちになるだけですし」
 申し訳なさを感じながらも、おれは彼の恥ずかしい口を閉じさせるために、頭から湯をかぶせるしかなかった。
 こんなことさえなければ、きっとずっと知ることはなかっただろう。良かったんだか、悪かったんだか。
 おれは、次からは気をつけようと心の中で誓った。
 本当に避けることができるか、あまり自信はなかったけれど。



 その後も、浴槽に二人で入る段階になって、またひと悶着あった。
 当然、コンラッドの部屋に備え付けられた風呂は二人で足を伸ばせるほど広くない。いつもだと、なし崩しにコンラッドの膝の上だったり間だったりに座らされることとなるのだが、今回ばかりは勝手が違う。
 ならばいつもの逆でいいじゃないかというおれの提案を、コンラッドが珍しい頑なさで否定したのだ。
 寒い季節ではないとはいえ湯冷めするだろうと言い合い、結局、二人で向かい合って膝を抱えることとなった。
 傍から見たらすごくシュールな光景だ。コンラッドのおれをみる目が、ものすごく複雑そうだった。
 すったもんだの末に風呂から上がり、これでようやく落ち着けると思ったところでもうひと悶着あった。いや、これはおれが怒っただけか。
 寝間着に着替え終えたコンラッドが、やけに真剣な顔で何かを悩み始めたのだ。どうしたのかと問いかければ、どちらの髪を先に乾かすべきだろうか、なんて下らないことを聞いてきやがる。
 普段ならばおれを優先してくれるのだが、おれの中身か、身体か選べないとか。
「あんたって、実はちょっと馬鹿だったんだな」
 自分の身体をそれぞれ担当すればいいことだ。
 溜め息をつきながら、おれはいまの自分の髪をいつもより丁寧に拭き始めた。
 コンラッドは、おれを優先するあまり、自分のことを疎かにしすぎる。つまり、おれが彼のことを気をつけてやればいい、そういうことだろう?
 二人でベッドに横になり、手を繋いで天井を見上げた。普段ならばぴたりとくっつく身体に距離があるのは、やはりおれたちがナルシストではないせいだ。
「新鮮でおもしろくはあったけど、結構、ストレスたまるものだなあ」
 ぽつりと漏らした呟きに、コンラッドから深い同意が得られたのが、少し意外。
「あんた、困ってなさそうだったのに」
「困るに決まってるでしょう。最初から言ってるじゃないですか。あなたに触れたいのに、触れることができない。困りっぱなしです」
 別に見た目で恋に落ちたつもりはないけれど、たぶんそういうところも含めて、好きになったのだろうなと、ぼんやり考えた。
 一生このままだったとして、別れるという選択肢を選ぶことはないが、できることなら一刻も早く戻りたい。
「いますぐ、抱きしめてキスをしたい」
 普段ならば、そんな熱っぽい台詞を言われただけで頭が沸騰しそうになるのに、おれの声で言われたところで威力は半分以下だ。
 それでも、気持ちは同じだから、おれは静かに「そうだな」と返事をした。



 アニシナさんからの返事が血盟城に届いたのは、おれたちの身体が元に戻った三日後だった。ちなみに、おれたちの身体が入れ替わってから四日後でもある。
 翌朝目覚めると、コンラッドが言った通り、元に戻っていた。しっかりと逞しい身体に抱きしめられて目が覚めた朝は恥ずかしくあったけれど嬉しさが勝って、朝にしては少し濃厚すぎるキスを何度もした。
 原因についてはその時は分からなかったものの、元に戻ったから良しとしたのだが、愛娘の師匠でもある赤い悪魔からの手紙に、答えが書いてあった。
 曰く、グレタのくれたクッキーに、願いが叶う薬を仕込んだとのこと。とはいえ、大したものではない。叶うかどうかは願いの内容と薬を飲んだ人の魔力と運次第という、極めて微妙なシロモノだそうで。
「おれ思い出したんだけどさ」
「何をです?」
「グレタが帰っちゃう前に、話をしたんだ。その時に、グレタが『いつか、美人で優しかったお母様のような女性になりたい』って言ってて。それで、『ユーリはどんな大人になりたいの?』って聞かれてさ」
 憧れの存在。いつかこうありたいという姿。
 コンラッドは口を挟まずに、続きを待っていた。もしかしたら、ちょっとぐらい期待しているだろうか。
 おれは、もったいぶるのを止めて、それが正解であることを教えてやることにした。
「おれは、コンラッドみたいになりたいって答えたんだ」
 きっと、こんなことになるとは彼女は思っていなかっただろう。そもそも、あの日の出来事が、クッキーのせいかはわからない。赤い悪魔の発明品は、成功よりも失敗が多い。
「でも、なってみて気づいた。おれ、コンラッドになれなくていいや」
「がっかりしました?」
「んー……」
 おれより、がっかりした顔をする大人に向かって、おれは笑いかけた。
「おれは、おれとして、あんたと一緒にありたい。あんたになりたいんじゃない。あんたがおれを大切にしてくれるみたいに、あんたのことを大切にできる大人になりたいんだ」
 貰うばかりではなく。
 まだ先かもしれないけれど。
 自分でも恥ずかしく感じながら告げた言葉に、コンラッドが笑った。鏡ではない姿の、彼しかできない表情に、おれは元に戻れたことを改めて喜びながら、一歩目標に近づけたことを感じた。


(write:2013.07.22/up:2014.07.22)