今になって思うと、
1.出会ったときから特別で、
この季節が来る度に思い出す。
コンラッドは晴れ渡った空を見上げて、目を細めた。
随分と昔のことのはずなのに、今でも鮮明に思い出すことができた。
彼と初めて出会った日あの日−−。
地球、アメリカ、マサチューセッツ州、ボストン。七月の終わりのボストンの街の、どこまでも澄みきった真っ青な空。
行きかう人々の喧騒や交差点で鳴り響くクラクション、じりじりと肌を焼く太陽の熱でさえ、すべてが今日という日を祝福しているように感じた。
異世界から遠い旅路の唯一の仲間だった小さな丸い球体と別れてから数ヶ月。コンラッドは旅の仲間を失うと同時に、渋谷有利という赤ん坊と出会ったのだ。
二度目の出会いも、忘れられない。
黒い瞳をきらきら輝かせていた小さくて温かかった赤ん坊の面影を残した少年を、コンラッドは一目で「ユーリ」だと理解した。
「陛下の母上はそれはもう気丈な方で、今にも生まれそうだってのに、タクシーの運転手を怒鳴りつけてました」
ボストンの街角に立つ彼の母親は、苦悶の表情を浮かべながらも小さな命を守るため、必死に戦っていた。
彼の父親は自分の未来の息子のため、上司の客人でさえ叱り飛ばしてみせた。そして、叱ったあとで、叱ったことなど忘れたかのように相手を受け入れるだけのおおらかさを持っていた。
そんな両親の間で生まれたのが彼だ。
どれだけ大きくなっただろうか、元気だろうか、かつての自分のように父親に連れられてボールパークに通っているのだろうか。フェンウェイパークでレッドソックスの試合を観ながら、将来の夢は息子とボールパークに通うこととキャッチボールをすることだと語っていた彼の父親のことだから、きっと野球少年になっていることだろう。
愛され、健やかに成長しているに違いない。
そう信じて疑わずに想像した姿のぼやけたビジョンと、実際に目の前に現れた少年の姿がぴったりと重なり、クリアになったあの感覚。
「まさか……まさか相乗りの名付け親!?」
「採用されちゃうとは思いもしなかったもんで……」
驚き、まあるくなった漆黒の瞳を見つめたコンラッドは、口許に笑みを浮かべた。
「十五年間、ずっと待ってたんだ」
ずっと待ち続けていた。
焦がれていたといってもいい。
コンラッドは、外したグラブを脇に抱えた。いつの日か彼と再会ができたら、自分も一緒にキャッチボールができるだろうかと、あちらの世界から持ち帰った数少ない品の一つだ。
「直接、陛下とお会いできる日を」
喜びが声に滲むのを自覚したけれど、コンラッドは自制をすることができなかった。
「……陛下なんて、呼ぶなよ、名付け親のくせに」
かつての友人。異世界を共に旅したまあるい球体。次代の魔王陛下。
会いたかった理由はひとつではない。
けれど。
「……」
一番会いたかったのは、あの日の赤ん坊だった。コンラッドが名前を与えた小さな命。一度だけ抱きしめた身体は、ともすれば壊れてしまいそうなほど華奢なのに、しっかりと生きていることを主張していた。
その強さが、愛しかった。
「ユーリ」
夏を乗り切る強さを持った祝福された子供の名前を大切に口にすれば、七月のボストンを思い出させる太陽のような笑顔が返された。
コンラッドの夢が叶った瞬間だった。
「陛下」
コンラッドは、目の前を歩く少年を呼び止めた。
いつもの黒い学ラン姿に加えて王冠とマントを身につけた正装をしているのは、今日が大切な式典の日だからだ。
「陛下ってゆーな、名付け親」
「そうでした、つい」
装飾の重さに負けて少しずれてしまった王冠の位置を直してやる間、うらめしそうな上目遣いを受けて、コンラッドは少し腰を落とした。
頭一つ分低い位置にある大切な名付け子と視線を合わせれば、世界で一番美しい色の瞳と目があった。
「つい、じゃないよ。ったく」
この廊下の突き当たりにある広間では、たくさんの客人たちが主役の登場を待っていることだろう。式典の開始時刻まであとわずか。
「ユーリ」
自らがつけた子供の名をコンラッドが呼びかけると同時に、鐘の音がなった。
眞魔国第二十七代魔王陛下の降誕祭の開始を告げる合図だ。
鐘の音に負けぬようにと、コンラッドは少年の耳元へと唇を寄せて、これからたくさん受け取るであろう祝福の言葉を一番初めに口にした。
生まれてきてくれたことへの感謝と、彼の健やかな成長を願って。
「誕生日おめでとう、ユーリ」
2.君のことを考えない日は無くて、
それは、彼が還ってくる半月前のこと。
「まだ悩んでいるのか?」
月が替わり、祭を三週間後に控えた城下はいつも以上の活気にあふれていた。兵士を指揮して巡回を行ったコンラッドは、報告のために訪ねた兄の部屋でかけられた言葉に目を丸くした。
「ああ、まあね」
顔に出していたつもりはなかったのだけれど。
『誕生日プレゼントが決まらないんだ』
既にプレゼントを決めて鋭意作成中の兄がうらやましくて、ぽろっと口にしてしまった先日のことを、どうやらまだ覚えていてくれたらしい。
兄のような編み物の才能も、弟のような絵の才能も生憎コンラッドは持ち合わせていなかった。あえて自分が人より秀でていると言えるのは剣の腕前ぐらいだが、それは彼へのプレゼントを用意する上で何の役にも立ちはしない。
「ふむ……」
眉間に皺を寄せた兄は、どうやらアドバイスをくれるようだった。そうやって親身になってくれようとする気持ちを受け止めて、コンラッドは口許を緩めた。
「あの小僧のことだ。お前の寄越すものならばなんだって喜ぶだろう」
こちらの世界で祝う二度目の誕生日が近づく中で、一年という期間のもたらした変化を実感する。
昔の兄ならば、宝飾品や酒など王への献上品という視点で候補をあげただろう。だが、今は違う。渋谷有利という少年を見た上での発言に、コンラッドは何度も頷いてから、だからこそ困っているのだと打ち明けた。
「何でも喜んでくれるのは分かっているんだ。でも、できることなら、一番喜んでくれるプレゼントをあげたいだろう?」
去年のプレゼントは我ながらとてもうまくいったと思う。予想以上の反応と、この国が好きだといううれしい言葉をもらうことができた。
あれ以上に喜ばせたいと願うのは欲張りだと理解はしているのだが、同時に仕方ないだろうと開き直る気持ちもある。
大切な名付け子の誕生日なのだ。欲張ったっていいじゃないか。
「贅沢な悩みだな」
ぽつりと呟いた兄が脇の机の上に鎮座する籠を見た。編みかけの編みぐるみと、これから編まれる白い毛糸。
めずらしく執務中にみせたあくびは、夜遅くまでがんばっていた証拠だろう。編みぐるみの向こうに、贈る予定の少年の姿を見ているのか。兄の優しい視線に気付き、コンラッドも微笑んだ。
「そうだね。そして、幸せな悩みだ」
こうして彼のことを想い、悩む時間さえ幸福だ。
3.君が笑えば俺も笑ってしまうから、
「グラウンドが見たい」
執務を片付けたご褒美に。
コンラッドは、ユーリのお願いを快諾した。
ロードワークのいつものコースを少し逸れる。
数歩前を走るユーリは、コンラッドの案内を必要とせず、一直線に目的地を目指していた。息を乱しながらも足は先へ先へと向かっている。彼の逸る気持ちを理解して、コンラッドもペースをあげた。
緩やかなスロープを登りきった先、小高い丘の頂上を越えれば、開けた視界の先に飛び込んでくるのが、この世界で唯一の野球専用スタジアムだ。
「すげー。前に来た時よりも外野フェンスがしっかりしてる。もうすっかり野球場! って感じだな。いつでも試合ができそうだ」
五箇所だけ芝が切り取られている。土が露出した一番手前、いわゆる扇の要とも呼ばれる位置まで移動して両手を大きく広げたユーリは、どうやら試合をする様を想像しているようだ。
両手を広げて、想像の中のナインへと合図をおくると、その場にしゃがんだ。
「早く試合がしたいな」
ボールを受ける。ピッチャーへ返球する。またボールを受ける。すかさず立ち上がってセカンドへ送る。
イメージしながら動く彼を見守るコンラッドもまた、自分自身がマウンドに立ってバッテリーを組む姿を想像し、目を細めた。
「計画を立てましょう」
さしずめ、第一回魔王杯といったところか。
「そうだな。まずは、道具をたくさん用意しないと。ルールブックもいるかな。どれぐらいの人たちが野球に興味を持ってくれるだろう。おれとコンラッドしか野球のことわかんないわけで、教えるのも大変だ。ああ、地球からルールブックを持ってこればよかった!」
必要なものを指折り数える彼は、両手の指が足らなくなったところで、悲鳴をあげた。嬉しい悲鳴というやつだ。
「笑ってる場合じゃないんだからな、コンラッド」
つい声をあげて笑ったコンラッドは、咎める言葉に、だって、と珍しく反論をした。
「ユーリだって、笑ってるじゃないですか」
「だって、野球だよ、野球! 眞魔国でやっと野球ができるんだ」
頬を高揚させて興奮しながら笑う彼を前にして、コンラッドの笑みは尚も深まる。
「これからが大変だよ。あんたにはたっぷり協力してもらうからな」
「はい、よろこんで」
彼と共にならば、それは大変なうちにはいらないだろう。予感ではない。確信を胸に、コンラッドは深く頷いた。
あなたが目の前で笑ってくれるならば、それだけ苦労など消えてしまうから。
4.きっと明らかな恋だった
託宣をもとに待ち構えた泉のほとりで、先ほどまで静かだった水面が急にさざめいた。呼応するように、自身の胸の内までざわめくのを感じながらコンラッドは波紋の中心を見つめた。
「ぷはっ」
水面に浮かび上がった黒はすぐに少年の姿へと変化し、コンラッドの視界に飛び込んできた。水滴が陽光をはじいてきらきらと輝く。
「おかえりなさい、陛下」
世界が彩づく瞬間を感じながら、コンラッドはゆっくりと微笑んだ。
手を差し伸べ、握り返された手をしっかり握ってひきよせる。
「陛下じゃないだろう?」
「おかえり、ユーリ」
いつものやり取りの末に名前を呼ぶと、名を呼ばれた少年が満足げに笑った。
用意していた大きなタオルを彼の頭からすっぽり被せる。強く抱きしめてしまいたい衝動を押さえ込みながら、髪を拭く際に緩く抱きしめた腕の中には、待ち焦がれていた少年がいた。
「あんまり近づくと、あんたまで濡れるよ」
「いいんです」
もっと近くにいきたいぐらいだ、とは口にできないけれど。
丁寧に水分をふき取る手の動きに反応して、くすぐったそうに彼が笑った。クスクスと笑う声にあわせて腕の中の身体が微かに震える。
そんな反応にさえ心が満たされていく理由を自覚して、コンラッドは深く息を吸い込んだ。
彼を見送ってからずっと凪いでいた世界が、再び動きはじめた。
5.そして今は君を、
抱いた感情の名前に気付いた時、叶うことがない想いだと思った。
それを悲しいと感じなかったのは、今が十分に幸せだったからだ。
「なに笑ってるんだよ」
てっきり書類に集中していると思ったのに。
笑い声をあげたわけではない。少し口許を緩めた程度の表情の変化を見透かされて、コンラッドは眉を上げた。
「よく気づきましたね」
「いつも言ってるだろ。おれは見なくてもあんたがどんな顔してんのか判んの」
先ほどまで目を通していた書類にサインを終えた少年が、今はこちらを向いていた。
見なくても判るというのは、何も大げさなものではなく、同じ気持ちを共有しているからなのだろう。
現に彼もまた笑顔だ。
ただし、笑顔の理由は異なるのだろうけれど。
「陛下も楽しそうですね」
「あんたが楽しそうだからね。って、陛下ってゆーな、名付け親」
「そうでした」
壁にもたれていた背を浮かせた。
本棚の横の定位置は、動き回るギュンターたちの邪魔にならないだけではなく、魔王陛下の執務机にほどよく近くて仕事をする姿がよく見えるという利点がある。
コンラッドのお気に入りの場所の一つだ。
「すみません、ちょっと思い出してしまって」
「思い出し笑い? なにそれ、やらしーの」
そのまま執務机へと数歩の距離をつめるのを追って、ユーリの視線も移動する。
楽しげに笑う彼は、コンラッドの笑顔の理由が自分だなどと露ほどにも考えていないのだろう。
「やらしくは……あるかな」
「へ?」
ない、とは言い切れない。
幸い、グウェンもギュンターも席を外しているため、執務室には二人きり、他に聞く者はなし。
普通に教えてもよかったのだけれど、コンラッドはあえて机を回り込んだ。同様にぐるりとまわろうとした彼の首を制して耳元に唇を寄せて伝えるのは、秘密の打ち明け話だ。
ちょっとしたいたずら心だった。少し浮かれていたのかもしれない。
「あなたは男前だなと思って」
「なっ……!」
途端に赤く染まった耳が、つい先日の記憶を呼び起こしたことを言外に告げていた。
いまだコンラッドの胸の中には、あの日の記憶は鮮明だ。きっと、生涯忘れることはないのだろう。
降誕祭の夜。大事な話があるのだと部屋を尋ねてきたユーリから、告白を受けた。
『あんたが好きだ』
まっすぐに向き合って、体当たりみたいに「好きだ」とぶつけられた言葉は、驚くほどすんなりと心の中に入り込んで様々な葛藤をすべて砕いてしまった。
「嬉しかったんですよ」
「本当に?」
尋ねてはくるが、こちらを見ようとしない。見せてくれるのは黒い髪から覗いた赤い耳だけだ。
「ええ、本当に。あなたにはもっと良い相手がいるだろうとか、ジェニファーやショーマは怒るだろうかとか、そういうのがすべて吹っ飛んでしまうほど」
伝えるつもりのない想いだった。
胸の中の一番奥にしまいこんで、大切にしているだけで幸福だったのだ。それ以上など望まない。望むのは、ただ彼の健やかな成長だけだと思っていたのに。
彼からの告白がもう少し湾曲な方法であったなら、かわすこともできたかもしれないのにと考えて、ストレートにぶつかってくる彼だから好きにならずにいられなかったのだと思い至った。
「なんでそこで親父やお袋が出てくるんだよ。ってか、良い相手ってなに? おれは、あんたがいいんだよ、コンラッド」
ああ−−。
コンラッドは、大きく息を吸い込んだ。胸がいっぱいだ。
彼のそういうところが、男前だというのだ。
「俺も、あなただけです」
コンラッドの囁きをうけて、ユーリは突然机へと突っ伏した。
「わ、わかったから、もうやめてくれ」
「大丈夫ですか?」
ゴツンと、かなり大きな音がした。あわてて額を確認しようとしたのだが、起こそうとしたコンラッドの手を拒否するように、ユーリはつっぷしたまま首を振る。
「だいじょうぶ……じゃない。あんたが恥ずかしいこと言うから」
「言いましたっけ?」
「言ったよ!」
大きな声が返された。これなら、おでこの具合は心配なさそうだ。
「お茶いれてくれ。仕事になりそうにないから」
つっぷしたままのお願いに、顔がみたいなと後ろ髪ひかれながらも、コンラッドはうなずいた。
「とびきりおいしいものをいれましょう」
顔を見せてくれないかわいらしい恋人のために。
(write:2014.07.22/up:2015.07.22)