前夜


「眠れませんか?」
 何度目か分からない寝返りをうつ気配を感じて、コンラートは隣へと声をかけた。
 既に灯りを消してだいぶ経つ。今日はとても忙しかったからすぐに寝落ちてしまうかと思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。普段は寝付きのいい恋人にしては珍しいことだった。
「起こしちゃった? ごめんな」
 コンラートの呼びかけに、つい先ほど背中を向けた人が振り向いた。
 灯りを消したとはいえ、すぐ隣にいる人の表情ぐらいは分かる。へにゃり、と眉を下げた顔を見せるのは、眠れなくて困っているのが半分、コンラートを起こしてしまったことを申し訳なく思っているのが半分と言ったところか。
 眠れないならば、そう言えばいいのに。
 彼をこちらの世界に迎えて、最初は名付け親という立場で、しばらくしてからは恋人という立場で彼を部屋に迎え入れるようになってからも、こういうところはまったく変わらない。もっと甘えてくれていいのに、とコンラートはいつも思うのだが、彼としては今でも十分に甘えているつもりらしい。
 彼曰く「親しき仲にも礼儀あり」だそうで、それが歯がゆい反面、そう言った彼の律儀な一面がコンラートには好ましく映るのだ。
 生まれ持った資質もあるのだろうが、異世界  コンラートも僅かながらに交流を持ったあの両親の下  で大切に育てられたおかげというのが大きいのだろう。眞王陛下にどのような考えがあったのかコンラートには知る由もないし知りたいとも思わないが、あの判断は正しかったのだと心から思う。
「いいえ、起きてましたから」
 本当か、と疑いの眼差しを感じて眉を上げた。
 嘘ではないのだが、恋人を気遣っての言葉と思われたらしい。そういう部分では、信用がないなとコンラートが笑えば、おかしそうな笑みが返された。どうやら、信じてもらえたらしい。
 恋人同士で部屋を行き来、ましてやお泊りともなれば、ただ並んでおやすみなさい、なんて流れにはならないことの方が多いのだが、今夜は珍しく「早めに寝よう」と二人の意見が重なった。明日は早朝から予定が入っているせいもあるが、それだけでもなく、なんとなく……そう、なんとなく、そういう気分だったのだ。
「あんたも眠れないの?」
「ええ。なかなか寝付けそうにないので、考え事をしていました」
「考え事って?」
 すっかり眠ることを諦めてしまったらしい恋人が、コンラートへと身を寄せてくる。コンラートは答えるかわりに腕を伸ばして、そっと恋人の身体を抱き寄せた。
 今でこそ、素直に腕の中に収まってくれるようになった恋人だが、名付け親子という関係を飛び越えた直後は少し触れただけでも逃げられた。こちらを意識して、赤くなったり青くなったり、近づいたり逃げ出したり、そんなことを繰り返しながらも、精一杯コンラートと向き合おうとしてくれた結果が今の関係なのだと思うと、幸せだな、とコンラートは口許を緩めて世界一うつくしい色の髪へと口付けを落とした。
 ゆっくりと息を吸い込むと、魔王専用の浴場に置いてあるものではない、自分の髪と同じ洗髪剤の香りがする。それもまた、コンラートを嬉しくさせた。
「本当は眠らないとまずい時間なんですけどね。明日は今日以上に忙しくなりますよ」
「でも、眠くないんだよなあ」
 彼のためには、眠るべき時間だ。恋人らしく夜更かしをする夜だって、こんな時間まで起きていることはあまりない。
 覗き込んだ先には、困った顔があった。こんな顔をされたら、何でも言うことを聞いてあげたくなってしまう。
 コンラートは、鼻先に口付けると柔らかく笑いながら、背中をあやすように叩いた。
「俺もです。不思議ですね、明日が楽しみなのに、眠るのが勿体無いなんて」
「ああ、わかる。おれも同じ感じ。明日が待ち遠しいのに、なんでだろうな、今日が終わっちゃうのが寂しいんだ」
 どうしてだろう? と首を傾げる恋人に、コンラートはただ笑みを返した。
 しばらく考え込んでみせた恋人が、ふと思い出したようにコンラートを見た。
「そいえば、あんたは何を考えていたわけ?」
 先ほどの質問を、覚えていたらしい。
 別に隠すつもりがあったわけではないので、コンラートは口許を和らげると、今度は目の前の薄く開かれた唇を己のそれで啄ばんだ。
「もちろん、あなたのことですよ」
 口付けも回を重ねる毎に慣れてはくれたものの、不意打ちに弱いのは変わらない。途端に慌てた気配を察して、逃がさぬようにとほんの少し腕の力を強めた。
「どうしてでしょうね、なんだか今日は懐かしいことばかり思い出してしまって」
「懐かしいことって?」
「まだ赤ん坊だったあなたを初めて抱き上げた時のことだとか、あなたが初めてこちらの世界へいらした時のことだとか。あなたがこの部屋に初めて泊まりにきてくださったことに、あなたが……」
 言い出せばきりがない。すべてがコンラートの中で色鮮やかな思い出だ。
 照れたのだろう。居心地が悪そうに腕の中で身じろぎされたのに気づいて、コンラートはほんの少しだけ距離をとった。
 可愛くて仕方のない恋人とのこれ以上の密着は、予定になかったことを始めるきっかけになってしまいかねないので。 
「眠くなるまで、おしゃべりでもしていましょうか」
「いいの?」
 どうやったって、まだまだ眠くなれそうにないのはお互い様。無理に眠ろうとしたって、逆に辛いだけだろうから。
「ええ。今夜は特別な夜ですから」
 恋人同士で過ごす最後の夜だから。
 ユーリもそれを感じて、眠れずにいるのだろう。
 コンラートはもちろんだと請け負って、何から話そうかと考え始めた。


(write:2015.07.22/up:2016.07.01)