あまえる


「かなり打ち解けたみたいじゃないですか」
 先ほどから書類に向けた顔をしかめたり口許を緩めたりと、ひとり百面相をしている主の仕事が一区切りつくのを待って、ウェラー卿は声をかけた。
 伏せられていた顔があがる。何のことか分からなかったようで、きょとん、と瞬く顔があどけない。その表情に笑みを誘われながら、コンラッドは答えを与えるべく閉じられた扉に視線を向けた。
 先ほど、コンラッドの兄であるフォンヴォルテール卿がそこから出ていったばかりだ。意図を察したユーリが、んー、と考えるように羽ペンをクルクルとまわした。
「そっかなー」
 言葉とは裏腹に、彼の頬が緩まっていく。まんざらでもなさそうな表情に、コンラッドは壁に預けていた背を浮かせた。
「なんかさ、スヴェレラから帰ってからちょっと喋りやすくなった気がするんだよね。おれが一方的に親近感を感じちゃっただけかもしれないんだけど。おれが思うほど実は嫌われてるわけじゃないんじゃないかな、って気付けたっていうか。ま、グウェンが聞いたら自意識過剰だって怒るかもしれないけど」
 確かに、ユーリの発言をグウェンダルが聞いたら眉間の皺を深くするだろう。でも、それは彼が想像したような理由じゃない。
 執務室で一番大きな机へと近づいたコンラッドは、ユーリの手の中にある羽ペンを取り上げると、ペン立てに戻した。
「怒るとしたら、照れ隠しでしょう」
「そっかな?」
「最初から言っていたでしょう? 彼は小さくてかわいいものが大好きだから、あなたのことを嫌えるはずがない」
「それは、おれが小さいってことかよ」
 かわいいについては、流すことにしたらしい。コンラッドとしては、触れられても構わなかったのだが。
「いまはまだ、ね」
「いまにみてろよ」
「楽しみにしてます」
 兄のように眉間に寄った皺は、彼ほどの年季がないためか、コンラッドが指で軽く撫でるとすぐに解けて消えていった。
 スヴェレラでの一件以降、ユーリの方からグウェンダルに近づいていく回数が増えた。最初は取り付く島もなかったグウェンダルの態度も、今では軟化して会話らしいものが成り立つようになっている。とても良い傾向だろう。
 弟を助けるためとはいえ彼の護衛として傍にいられなかったことは悔やまれるが、彼と兄の距離が縮まったのは怪我の功名とも言えるかもしれない。
 ただ、コンラッドの心中は少し複雑だ。
「やけますね」
 眉間を撫でた指をそのまますべらせた。顔の輪郭を確かめるように、頬のラインを撫でてゆく。まるみを帯びたそこから名残惜しく指を離す前に、少しだけ軽くつまんだ。
 彼はくすぐったそうに少しだけ目を細めると、椅子から立ち上がってコンラッドと向き合った。 
「あんた、前にもそんなこと言ってたよな」
 遅れをとったようで悔しい。
 どうやら彼は、スヴェレラでコンラッドが漏らした言葉を覚えていたらしい。忘れていてくれたらよかったのに、と思う反面、うれしくもある。あの時は、あんなこと言うつもりなんてなかったのに、気付いたら感情が言葉になっていた。笑って冗談にしてはみたものの、紛れもないコンラッドの気持ちだった。
 彼はすばらしい魔王だ。この国を、世界をよりよい方向に導いてくれる。それは、そうなって欲しいという希望ではなく、そうなるだろうという確信としてコンラッドの胸の中にある。だから、こちらの世界に来たばかりのユーリに対する兄や弟の態度が、コンラッドにはひどくもどかしく感じた。もっと彼のことを知れば、彼のすばらしさが分かるのに。それに気付けないなんて、勿体無い、と。
 それなのに、いざ望んだ通りになった途端に、コンラッドは素直に喜べない自分を自覚した。
 どれだけ自分以外の誰かと彼との距離が縮まったとしても、彼の一番が自分であればいい、なんて。まるで子どもの独占欲だ。
「……ったく」
 詮無いことをつらつらと考えるコンラッドの頬を、小さな痛みが襲った。さっきのお返しとばかりに伸ばされたユーリの指が、頬を限界まで引っ張ってから、離れていく。
「あんた、なんかくだらないこと考えてるだろう」
「そんなことは、」
「前にも言ったけど!」
 ない、と言いきるより先に、ユーリがそれを遮った。
「あんたたちは兄弟なんだから、おれよりずっと付き合いが長いし、これからも長く付き合っていくんだろ? おれにやきもちなんて妬く暇があったら、お兄ちゃんをお茶にでも誘えばいいじゃん。グウェンだって、おれより弟のあんたと仲良くしたいに決まってる」
 それはどうだろう、と言い掛けてやめたのは、表情に出ていたのを視線で咎められたからだ。
「あんたたち兄弟は似てるよ。ちっとも素直じゃない。もっと素直になればいいのに。変な遠慮なんてしないで、仲良くすりゃいいんだ」
 自分のことのように怒ってみせる彼の表情を見ていたら、訂正なんてできなかった。やきもちを妬いた相手が違うのだと、この間も、今も、彼はまったく気付きはしない。
「……そうします」
「よし!」
 分かりましたと頷いたコンラッドの肩が、痛いぐらいに叩かれた。満足そうに彼が笑う。くるくると変わる彼の表情の中で、コンラッドが一番好きな顔だ。
 褒めるようなそれを受け、コンラッドはおもむろに目の前の身体を腕の中に抱き込んだ。
「え、なに?」
「陛下が言ったんじゃないですか、遠慮なんてするな。自分に素直になれって。だから、確かめてみようと思いまして」
「確かめるってなにを。ってか、陛下ってゆーな」
 相手が違うだろうと訴える声が腕の中から聞こえたが、違ってなどいない。コンラッドが一番に仲良くなりたい相手は、たった一人だ。離す気はなかった。
「あなたとの距離感、かな。ユーリ」
「なにそれ」
「どこまで近づいていいのか、確かめてるんです」
 誰よりも一番身近な存在でいたい。物理的な距離だけの話ではないけれど心の距離は見えないから、彼がどこまで受け入れてくれるのか触れることで確かめる。
 つむじに鼻先を埋めて空気を吸い込むと、太陽のにおいがした。
「変なの」
 腕の中に納まっていたユーリが、「うーん」と考えるように小さく唸り声を上げ、おもむろにコンラッドの背に手を回した。
「わかったぞ、コンラッド」
「ユーリ?」
「あんたは寂しいんだろ。さすがに百歳にもなって兄弟とスキンシップはとりにくいもんな。いいよ、おれなら年齢的にも孫みたいなもんだし、あんたも甘えやすいだろ」
 やっぱり彼は気付かない。自分で口にしてみて改めて確信したのか「そうかそうか」と一人で勝手に納得してしまった。
 そうではないのだと伝えるための言葉を頭の中で探したコンラッドは、一度は開いた唇を、迷った末にそのまま閉じた。
「そうなんです。だから、もうちょっと甘えさせてください」
 甘えるように囁いた。
 背をあやすように叩く刺激が、ひどくやさしい。これは、彼が自分だけのために与えてくれているものだ。
 だから今はこれでいいかと、コンラッドは腕の中にある幸せを噛み締めるように目を伏せた。


(write:2016.07.22/up:2017.07.01)