平行線


「ぷはっ」
 お湯の中から異世界にコンニチワ。
 たどり着いた先は、血盟城の魔王専用風呂の中。出迎えてくれたのは、コンラッド、ヴォルフラム、ギュンターといういつものお迎え三人組だった。
「やほー、みんな」
 久しぶり、元気だった? なーんて。続くはずの再会のあいさつは、突如浴室内に響いた悲鳴によって遮られてしまった。
「陛下、どうされたのですか!」
 どうされたはこっちのセリフなんですが。
 中途半端に右手を上げたまま固まるおれを見る王佐の顔が、ナントカの叫びみたいになっている。目は血走り、髪を振り乱して、超絶美形が台無しだ。
「ななななな、なに?」
 思わず後ずさりながら、助けを求めたコンラッドは肩を竦めて苦笑いの表情だった。
「おれ、なんかした?」
「いや?」
 とにかく助かりたい一心でコンラッドに近づくと、彼が手を貸してくれる。軍人さんの力強さで湯船から引き上げてもらったおれは、彼の背中にぴったりと張り付いた。
「陛下っ!」
「あっ、ハイ」
 呼ばれて、うっかり返事をしてしまった。恐る恐るコンラッドの背から窺うと、ギュンターが滝のような涙を流している。そんなに泣いたら干からびるんじゃないかな。
「なんとおいたわしい。陛下のお美しいお体が、ブフォッ」
「え? え?」
「ったく、なんだユーリ。その痣は」
 そこでようやく、ずっと不機嫌そうな顔でおれたちを見ていた三男坊が割り込んできた。
 離れろ、とおれとコンラッドの間に割り込んできたヴォルフが、おれの二の腕を軽くつついた。
「うおっ、いてっ」
 スタツアの衝撃で忘れていたけれど、拳大にまあるく広がったそれが指で押されて鈍く痛む。
「突くなよ、ヴォルフ。痛いって、おい、やめろ。ファウルチップが当たったんだ」
「ふぁある、ちっぷ? なんだ、男か?」
「男どころか人名でもねえよ」
 こんなことなら嫌がられてももっとしっかり野球のルールを説明しておくんだった。
 あんたなら分かるだろ、と助けを求めた野球仲間は、悲しみのあまり汁を吹く王佐と、なおも痣を突こうとする三男坊をそっと遠ざけてくれた。さすがコンラッド、頼りになる。
「大げさだぞ、ギュンター、ヴォルフラム。陛下だって男の子なんだから多少の怪我ぐらいするさ」
「さっすがコンラッド。話が分かる」
 ピッチャーが投げたボールがミットから大きくはずれて身体に当たることもあれば、バットが弾いたボールがそのまま後ろに飛んでくることもある。軟式ならともかく硬式ボールはかなり痛い。防具の上からでもそれなりの衝撃なんだから、防具がついていないところに当たれば悶絶モノなワケで。
 プレーに必死になればなるほど考えるより先に身体が動く。ホームでのクロスプレーで怪我をするなんてのもよくある話だ。いちいち気にしていたら野球なんてできやしない。
 そんな危ないことはするなと言い出しそうな二人をいさめたコンラッドが、濡れたおれの身体をバスタオルでそっとくるんだ。
「おかえりなさい、陛下」
「陛下ってゆーな、名付け親」
「そうでした。おかえり、ユーリ」
 惚れ惚れするような爽やかな笑顔。彼と交わすいつものあいさつに、ああ、帰ってきたのだなと感じた。



 なんてことがあったのに。
「悪かったよ」
 今日の彼は、いつも纏っている爽やかな雰囲気などどこにもない。唇を引き結んで不機嫌を隠さないコンラッドの迫力に圧されつつ、おれは小声で謝った。
「何がですか?」
 ようやく口を開いたと思ったら、問いかけてくる声が固い。
「えーっと……、あ、いてっ」
 右の上腕へ巻かれていた包帯がぎりっと締め付けられたのは、きっとわざとだ。
 うらみがましい視線を送るおれに対して、コンラッドはもう一度同じ質問を繰り返した。
「なにに対して謝っているんですか?」
 陛下、と続いたのも、きっと、たぶん……いや、間違いなくわざとだ。でも、「陛下って呼ぶなよ」と返せるような雰囲気ではなかった。
「えっと……」
 腕を怪我したのは三日前のこと。
 久しぶりに城下に繰り出して一日遊んだ後、夕食をとるために立ち寄った酒場で、突然酔っぱらいが騒ぎ出した。多少うるさいぐらいなら、まだいい。給仕の女の子にまで絡み始めたものだから、庇おうとして逆上されるというありがちな話だ。
 あの時、黙って見過ごしていたら女の子がひどい目にあわされていたかもしれない。怖い思いはさせてしまったが、怪我がなくて本当に良かった。だって、女の子なのだ。男の自分ならば傷の一つや二つは気にすることはないどころか、かわいい女の子を助けてできた怪我ならば勲章と言ってもいい。
 ……と、そこまで考えたところで突き刺すような視線に耐えきれずに肩を落とした。
「だから、ごめんって」
 あの日から、何度も口にしてきた謝罪を繰り返す。なにを言っても、きっと彼は納得しないとわかっている以上、謝ることしかできない。
 物分りの悪い生徒に対するようにため息をついたコンラッドが、巻き終えたばかりの包帯へと指先で触れた。ぎゅうぎゅう締め付けたのが嘘みたいに、そうっと、傷に響かぬように気遣いながら。
「痛みますか?」
「ギーゼラがくっつけてくれたから大丈夫だよ。あんまり動かさなければ痛みもほとんどないんだ」
「そうですか」
 コンラッドが庇ってくれたおかげで、さほど大きな怪我にはならなかった。多少は縫うのかと思われた傷口は、ギーゼラの魔力でぴたりとくっついたし。仮留めのようなものだから安静にするよう注意されたが、今のところは傷口が開くこともない。さすがは優秀な衛生兵。
「俺がついていながらすみません」
「なに言ってんだよ」
「あなたに怪我をさせるなんて」
「違うだろ、コンラッド」
 後悔の滲む声音に、おれはあわてて身を乗り出した。彼にこんな顔をさせるぐらいならば、怒られていた方がまだましだ。
「そもそも、おれ一人だったら、どうなっていたかわかんないし。むしろ、あんたのおかげでこの程度で済んだんだろ」
 コンラッドはちゃんとおれを庇ってくれた。下がっていろと言われたのに飛び出したのはおれだ。
 彼に非がないことは明白なのに、何度否定してみせても彼だけが納得しない。
「だいたい、あんた言ってただろ。おれだって男なんだから多少の怪我ぐらいするって。こんなの、スライディングしてきた走者にスパイクで蹴られるのに比べたらぜんぜん大したことないって」
 ファウルチップの痣は、もう随分前に消えている。割れた酒瓶の破片で出来たこの切り傷だって、そのうち消えて存在さえ忘れてしまうだろう。
「ユーリ」
 ……ああ、失敗した。彼のまとっていた空気ががらりとかわるのを肌で感じて、おれは天井を仰ぎみた。
「スポーツで怪我をするのと、暴漢に立ち向かうのとではまったく違う。ましてや、護衛としてついていながら、目の前で怪我をさせるなんて」
 捕まれた両腕が、ぎりりと締め上げられていた。
「あなたに怪我をさせるぐらいなら、自分が傷ついた方がどれだけいいか」
「そういう言い方はやめろって」
 掴まれた腕が痛い。でも、それ以上に痛いのは、たぶん彼の胸の方だ。
「ごめんって」
「なにに謝ってるんですか」
 彼の視線が、おれを射抜く。誤魔化すことなどできなくて、おれは正直に口を開いた。
「どこまでいっても、平行線なところ」
 彼の望みを叶えてあげられないところ。
「もちろん気をつけるよ。でもさ」
 同じことが起きた時、おれはまた考えるより先に行動してしまうのだろう。それで怪我をするかもしれなくても、目の前で女の子が怪我をするのを目の当たりにするより、ずっとマシだという考えを捨てられないし、捨てたいとも思わない。
「じっとしてられないのがおれだろう?」
 あんたは否定できないはずだよ。なんたって、おれの一番の理解者なんだから。
「それに、そんなことにならないようにあんたが護ってくれるんだろう?」
 厳しい表情の彼と、視線が絡む。
 おれだって万能じゃない。魔王なんて肩書きがあったって、どちらかといえば無力なただの子供で、こわいことだらけだ。それでも、ひるむことなく飛び出せるのは信頼できる護衛の存在があってこそに他ならない。
 包帯に触れる大きな手に、自分の手を重ねてみた。指先の感覚だけでも、そこに小さな傷跡がたくさんあることが分かる。
 たくさんのものを護れる手だ。この手に、おれも護られている。そして、おれが憧れる手だ。この手に恥じない自分でいたい。
「ひどい人だ」
「うん」
 おれもそう思うよ。
 おれの手の下にあるコンラッドの手が翻り、手のひら同士が重なった。長い指先が、おれの指を絡め取る。
 呆れと怒りと、あと何だろう。いろんな感情を複雑に絡み合わせて、彼が弱ったように肩をすくめた。
「本当に、ひどい人だ」
 もう一度、呟いた。怒りたくても、怒れない。そんな表情で許してくれる彼は、やっぱりおれの一番の理解者であり、信頼できる護衛なのだ。


(write:2017.07.22/up:2018.07.01)