いたずら


 空は青くて、水は透き通ってきれいで、ほどよく冷たい。
 水着を持っていないので素っ裸っていうのが心もとないが、コンラッド曰く「まず誰も来ないでしょう」ってことらしいので安心だ。
 つまり泳ぐには最適な状況ではあるのだが。
「おもしろくない」
 ゆらゆらと足を揺らして立ち泳ぎをしながら、おれは岸を振り返り呟いた。
 こんな天気の良い日に部屋に篭りきりで執務なんてしたくないと言ったのがおれなら、遠出をしたいと言ったのもおれだ。途中で見つけた綺麗な泉で涼みたいと素足をつけて遊んだのもおれだし、せっかくだから泳ぎたいと言い出したのもおれだ。
 コンラッドはその全てを、わかりましたと爽やかな笑顔で叶えてくれた。
 それはわかっている。
 でも、だ。
「ひとりで泳いでもなあ」
 一番最後の、一緒に泳ごうという誘いだけは、あっさり却下されてしまった。護衛なので、ということらしいが、それがどうにもおもしろくない。
「陛下、あまり遠くまで行かないでくださいねー」
「分かってるよ! それから、陛下ってゆーな!」
 岸に近い木陰に腰を下ろしたコンラッドがのんびりと声をかけてくるけれど、すっかり臍を曲たおれは、再び背を向けて泳ぎ出した。足はとっくにつかなくなっているが、泉だけあって波もなく、サメみたいな危ない魚もいない。
 いや、こっちの世界のサメはベジタリアンなんだっけ? ジロー君だか、サブロー君だか忘れたけれど、あちら育ちのおれとしてはできればあまりお近づきになりたくないもんだ。
 パシャパシャと水を跳ねさせて、時折水中にもぐる。見たことがない魚を見つけて追いかけたり、大の字になってのんびりと水面に浮かんでみたり。
 人がごった返した海水浴場やプールと違って快適な状況ではあるけれど、一人きりではさほど時間が経たずに飽きてしまった。
「うーん」
 ゆらゆらと立ち泳ぎをしながら考える。
 コンラッドのことだから、もう一度誘ったって、きっと首を縦に振らないだろう。そもそも、暑いと主張したのはおれだけで、汗をかきながらぐったりしてるおれの隣で彼はずっと涼しそうにしていた。
 今も木陰でのんびりとしたもんだ。イケメンっていうのは体感温度さえ違うのか? おれの視線に気付いて手を振っている姿が、なんだかムショーに腹立たしい。
「そうだ」
 いいことを思いついた。おれは、にんまりと口の端を引き上げると、大きく息を吸い込んだ。



 パシャン。
 派手な水音をさせて、水中にもぐった。なるべく息を無駄にしないように気をつけながら、深いところを目指して水をかく。
 頭の中でゆっくりと数えはじめた数字が、二十を超えたあたりからよくわからなくなった。息が苦しくなって、少しだけ心拍数が上がる。
 あと少し、もう少し。
 苦しくて開いてしまった口から零れた空気の泡が水面へと昇っていく。いよいよ限界を感じて上昇を始め、あと少しだと明るい水面へ向けて伸ばした手がふいに強い力で引き上げられた。
「ぷはっ」
 水面から出るなり一気に空気を吸い込んだ。勢いよく吸いすぎて、ゲホゲホ、と何度か咳き込んで、それでもようやく落ち着くかと思ったのに。
「くる、し」
 変わらず苦しい状況に、心拍数が下がらない。
「コッ……」
 どうして? と問いたいのに、うまく言葉にならなかった。
 さっきまで岸でのんびり座っていたはずの、彼がどうしてここにいるんだろう。見上げた彼は全身がずぶ濡れで、軍服がずいぶんと重そうだ。
「よかった」
 掠れた声と共に、ほうっと吐き出された息が耳にかかった。どちらのものか分からない心臓の鼓動がうるさく響く。
 ちょっと驚かせたかっただけだった。涼しげな彼の調子をほんの少しでも崩せたら、このムシャクシャした気持ちが治まるかな、なんていうささやかな出来心だったのに。
「あ、ごめ……おれ」
 まさか飛び込んでくるなんて。
 そんなつもりじゃなかったんだ、とは言い訳だ。それでも、慌てながら謝罪するおれの背を、大きな手が撫でていく。
「あなたが無事ならいい。けど、いたずらはほどほどにね、ユーリ。心臓が止まるかと思った」
 大げさなんかじゃないと今なら分かる。おれを引き上げた腕の、痛いぐらいの強さは本物だ。
「うん、ごめん」
「でも、まあちょうど良かったかな。暑いと思ってたんです。おかげで涼むことができました」
「服、濡れちゃったのに?」
「この天気ならすぐに乾きますよ」
 前髪をかきあげるようにして水滴を払う彼は、いつも通りに戻っていた。涼しげで、のんびりとしていて、暑さなんてまるで感じないような。
 けれど、彼だって涼しいばかりじゃないと知ってしまった。



 軍人さんは軍服を着たまま泳ぐ訓練もするらしい。身体にまとわりつく服など気にした様子もなく泳ぐコンラッドと並んで、岸に向かいながら、おれは隣を窺った。
「本当に、おれが溺れたと思った?」
「最初は、あちらに戻られたかと思いました」
「だったら、飛び込まなくても良かったんじゃ」
「もしもってこともあるしね。それに」
 先に岸にあがった彼が膝をついて、おれに右手を差し出した。
 彼の髪から零れる雫が、陽光を反射してきらきらと輝く。
「あなたを還したくなかったんだ」
 目を細めた彼がそんなことを囁くものだから、おれは火照る頬を冷やすためになかなか水中から上がることができなかった。


(write:2017.07.22/up:2018.07.01)