9周年


 目が覚めると、知らない部屋にいた。清潔感を感じる白い部屋だ。開け放たれた窓から吹き込むやわらかな風が、カーテンを微かに揺らしている。
 ここは、どこだろう。
 頭に感じる鈍い痛みに僅かに眉を潜めながら上体を起こすと、そこでようやく室内に自分以外がいることに気づいた。
「コンラッド!?」
 自分を呼んだであろう声の方へと顔を向けると、小柄な少年がベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けていた。
「気が付いたんだな。よかった。ギーゼラには大丈夫って言われたけど、このまま目覚めなかったらどうしようかと心配だったんだ。怪我の具合は? どこか痛んだり、気分が悪かったりしない? 吐き気は?」
 矢継ぎ早に質問を繰り出す彼は、艶のある黒い瞳を潤ませたまま、目覚めたことを喜び、よかった、と笑った。
 いつからここにいたのか分からないが、さっきまで泣きそうな顔をしていたのは彼の顔を見れば明白だ。溜め込んだ涙が零れてしまう前に目が覚めてよかった。
 乱暴に目許を擦ろうとする彼の腕を止めさせた。赤い目許が、もっと赤くなってしまう。かわりに、指先でそっと雫をぬぐえば、彼は笑顔を困ったものに変えて、擽ったそうに首をすくめて見せた。
 そのかわいらしい反応に、こちらまで自然と笑みが零れたけれど、いつまでものんびり笑いあっているわけにもいかない。
「あの、すみませんが」
「あ、なに? やっぱりどこか痛い? 頭打ったって言ってたもんな。ギーゼラを呼んでこよっか」
「いえ、そうではなく」
 途端に心配そうに慌てる彼へと首を左右に振ってみせた。言わなければいけない。たとえ、それが彼の表情を曇らせるものだとしても。
 一つ呼吸を置いてから、ゆっくりと口を開いた。努めて冷静に。彼を驚かせないように
「俺は誰でしょうか? そして、あなたはどなたでしょうか?」
「え? ええええええええええええええ!?」
 問いかけている間に、どんどん彼の瞳が大きく見開かれていく。
 こちらの配慮もむなしく、案の定、彼の大きな声が室内に響き渡ることとなった。



 頭を打って記憶喪失。
 それが、医務室のベッドで聞かされた診断結果だった。
 暴れた馬から子供を守った際に、頭を打ったという。庇った子供は擦り傷程度で済んだようで、不幸中の幸いと言えよう。
 赤い髪の小柄な女性が、「それならいい方法がある」と、大きなハンマーのようなものを持ってきた時にはさすがに動揺したが、幸いにもストップがかかり、実践されるには至らなかった。
 あれをどう使うつもりだったのかは、恐ろしくて聞けていないが、もし仮に頭を殴ろうとしたならば、二度と目覚めず記憶を取り戻さなければいけないという心配からは開放されることになったかもしれない。
 コンラート自身もたいした外傷はなく、記憶がない以外は特段不都合はない。ならば、時間が解決してくれる可能性が高いと判断された。
 そして、医務室から自分の部屋へと移ることを許可されたのだが。
「ここが、あんたの部屋だよ」
「ありがとうございます」
 目覚めた時に傍にいた少年が、廊下の途中で足を止めた。鍵が掛かっていないらしく、ドアを開けて中に促してくれる。
 なんと、彼はこの国を治める魔王陛下であるという。そして、自分は彼に仕える護衛なのだそうだ。
「すみません、陛下に案内していただくなんて」
「いいっていいって。執務はグウェンが免除してくれたし、しばらくの間おれの仕事はあんたの記憶が戻るようにサポートすることだから!」
 いいのだろうか? と思うのだが、彼はあっさり「いい」と言う。
「グウェンも心配なんだよ。おれも気になって仕事に手がつかなくなりそうだし、いいんだよ。あんたは、自分の記憶を取り戻すことだけ考えてくれればいいから」
 廊下を歩いている最中も思ったのだが、部屋の中も記憶になかった。物が少なく、地味に見える。けれど、居心地の悪さを感じないところをみると、なるほど、やはりここは自分の部屋なのだろう。
「ほら、まずは座って」
「はい」
 促されてカウチに座った。向かい合う形で引き寄せた木椅子に座る彼は、クッションを抱えてながら、そわそわしている。
「話すことがありすぎて、何から話せばいいか分かんないや」
「何からでも。あなたが話しやすいところから」
「だから、それが逆に難しいんだって!」
 深く考え込んでしまった彼を見ながら、不思議だと思う。魔王陛下だという彼が、ずいぶん自分に親しげだということも、医務室にいた他の面々がみな彼に任せることに意を唱えなかったことも。
「俺は、陛下の護衛をしていたんですよね?」
 泣きそうな顔で心配をしていた彼は、目覚めたコンラートを見てひどくうれしそうに笑っていた。
「そうだよ、ウェラー卿コンラート。おれはコンラッドって呼んでるけど。あんたはおれの専属護衛で、名付け親で、バッテリーで、えーっとそれからおれの、いや、……まあ、とにかく、そういうわけだから、おれのことは陛下って呼ばずにユーリって名前で呼んでくれよな。あんたが付けてくれた名前なんだから」
「不敬なのでは?」
「おれがいいって言ってるんだから、いいんだよ。おれがそう呼ばれたいの!」
 喋っている最中にも、くるくると表情がよく変わる。
「分かりました、ユーリ。では、ご迷惑をおかけしますが、しばらくのあいだよろしくお願いします」
「そのかしこまった口調もどうにかしたいけど、それは追々な。こちらこそ、よろしく。いつもあんたにはお世話になりっぱなしだから、今回は任せておいてくれよ。なんだって協力するし、どーんと大船に乗ったつもりでいてくれていいぜ」
 ユーリの宣言に、コンラートは僅かに肩を震わせた。どうしてだろう、彼の言葉はとても気持ちがいい。
 きっと素直な気持ちをそのまま言葉に乗せてくれているからなのだろうなと、覚えていないはずなのに、彼の人となりが分ってしまう。
「はーっ。でも、不思議だよな。記憶がないってどんな感じ? 不安じゃない?」
「不便かもしれないですが、不思議と不安はないですね」
「え、そーゆーモンなの?」
「意外なほど落ち着いています。ユーリが「任せろ」と言ってくれたからでしょうか?」
 興味深そうにこちらを覗う黒い瞳を見つめ返しながら、コンラートとしては彼の方がよっぽど不思議だと思う。上に立つ者にありがちな驕ったところがまったくない。けれど、こんなにも人を惹きつける。きっと、慕われる良い王なのだろう。
「ああ、でも残念ではあるかな」
「残念って?」
「あなたのことを覚えていない」
「ぶっ。あーもー、これだからイケメンは。記憶がなくたってやっぱりいつもと変わらないんだな」
 やめてくれ、と彼はカウチに置かれていたクッションを引き寄せて顔を埋めた。モノトーンでまとめられた部屋の中に置かれた鮮やかな青は少し異質に感じたが、なんてことはない。これはきっと彼のためのものなのだろう。
 改めて部屋を見まわしてみると、わかることがある。他の部屋では見ない毛足の長いラグや、棚に置かれた色鮮やかなアヒルの置き物、どうしてここに? と感じるものにはきっと理由があって、その理由というのが彼なのだ。
「記憶をなくす前の俺は、どんな感じでしたか?」
 記憶を失くした者のサポート役に求められるのは、何もかもを忘れてしまった本人の代わりに様々なことを教えること。だいたいにおいて家族であったり恋人であったりすると思うのだが。
 では、自分と彼の関係はなんだろう。
「えーっと、いつも爽やか好青年って感じかな。人当たりがよくって、誰にでも親切で、剣の腕も立つ。しかもイケメン。お子様からお年寄りまで、老若男女問わず大人気、みたいな? 街を歩けば美人のお姉さんによく声をかけられたり、城の中でもメイドさんから時々お手紙を貰ってたり。かと思えば、兵士さんたちからも、ウェラー卿に剣術の指南を受けたいので少しでいいのでお借りしたいってお願いされたりとか」
 なんだそれは。本当に自分なのか?
 まるでスーパーマンのようだ。まさか、こんな臆面もなく褒められるとは。指折り数えながらの彼の言葉は、彼の素直な気持ちだと分かるから、面映い。
「褒められすぎて、なんだか自分のことじゃないみたいだ」
「そんなことないよ。誰に聞いても同じようなことを言うって。ギュンターはあんたのことを自慢の教え子だって褒めてるし、グウェンだってあんたを信頼してる。ヴォルフも最近は素直になってきたし、みんな、あんたのことが好きなんだよ。……だから、心配してる」
「あなたは?」
「おれも、もちろん心配してるよ!」
「そっちじゃないんだけどね」
 不思議そうにゆるく首を傾げる彼に、こっちのことだと首を振った。短い時間の中でさえ、彼の言動は常に自分に対して好意的だと分かるのに、はっきりした言葉を欲しがるなんて。
「あまり心配をかけないためにも、早く記憶を取り戻さないといけませんね」
「だな。おれも協力するよ。次は何を聞きたい?」
「そうだな。俺はあなたの護衛なんですよね? 普段は、どんなことをしていたんですか?」
 普段の自分はどんな風に彼に接していたのか。それが分かれば、いま彼に向けている言いようのない感情の名前が、少しは見えてくるかもしれない。
「朝、おれの部屋に起こしに来てくれて、朝食前に一緒にロードワークに行くだろー。城内の庭を軽く走って汗を流して、それから朝食を食べて。午前中は書類仕事が多いから、だいたい執務室にいるかな。あんたは窓際が指定席で、時々おれのわからない言葉の意味を教えてくれたり、しんどくなったらさりげなくお茶の用意をしてくれたり。午後も執務の日は同じような感じで、たまに休みをもらえた日は、城下に出かけたり、ボールパークに行ったり。って、あ!」
 指折り数えながら、朝からの行動を並べるユーリが、急に大きな声を上げた。
「ボールパークって分かる? 野球ももしかして覚えてない?」
「ボールパーク……ですか?」
「野球をするための場所だよ。野球っていうのは団体でやる協議の一種でさ。ボールパークは、あんたがおれの誕生日にくれたんだよ。あんなでっかいプレゼント、想像したことさえなくてさ。もうホント、びっくりしたな。ホームシックが一発で吹き飛んじゃうぐらい。あの後も、芝を張ったり、客席を整備したり、ブルペンを作ったり。なんだかんだで手を加えてくれてて、今じゃもう市民球場なんて目じゃない立派な施設だな。このままだと、おれはいつかあんたが屋根を付けましょうって言い出すんじゃないかと心配してるよ。おれは断然、野球は青空の下でやる派だからな!」
 彼の言葉は半分も理解できていないのだが、勢いに任せて頷いてしまったコンラートに向かって、ユーリが近いうちに出かけようと笑った。過去の自分は、ずいぶんと彼のために努力したようだ。それもこれも、すべてこの笑顔のためだと思えば、きっと努力も苦労ではないのだろう。彼のためなら、なんだってできる気がする。
「そっか、野球も覚えてないんだな」
「すみません」
「いいっていいって。思い出せばいいだけだしな。おれとあんた、二人で始めたんだ。それが今じゃ、この国の国技なんだからびっくりだよな。まだまだレベルは低いけど、みんな練習がんばってるしこれからどんどんうまくなるぜ。今度、大会を開こうって話も出てるし……って、ごめん、話が逸れたな」
「かまいませんよ」
 コンラートは、首をゆるく左右へと振ると、口元に笑みを乗せた。ぜんぜん、かまわない。むしろ、もっと聞いていたいぐらいだ。
「もっと聞かせてください」
「え、野球の話? 聞くよりやってみた方が楽しいと思うけど」
 どうしようかな、と言いながらも大きな瞳をさらに輝かせるものだから、コンラートは堪えきれずに肩を震わせた。
 彼は、よほど野球が好きらしい。
「野球の話ももちろんですが、あなたのことをもっと聞かせてください」
 自分のことを知るべきなのかもしれない。けれど、今は自分のことよりも、彼のことが知りたかった。
 それがきっと、自分を知ることに繋がると思うから。



「あんたは、まったく自分のことを聞かないんだな」
「そうですか?」
「そうだよ!」
 あれから二日。状況は何も変わっていない。
 枕を抱えてベッドの上で転がるユーリがこちらを見ていた。その表情があまりに不満そうだから、つい口許が緩む。
 一昨日はあれから見たほうが早いと言うユーリに引っ張られるようにして、城中を歩いた。彼の部屋、彼のロードワークのコース、彼が仕事をする執務室、彼がいつもキャッチボールをする中庭。
 二日かけても回りきれずに、今日も案内されるままにあちこちに出向いた。さすがに厨房にまで案内された時には驚いたけれど、厨房係とも親しげな様子は彼らしく、ほほえましいものだった。
 どれも覚えていないのに、あれこれ熱心に話す彼を見ていれば普段の様子が目に浮かぶようで、とても楽しい三日間だったと感じてしまうのは、記憶を失くして心配をかけている身としては不謹慎だろうか。
「でも、いろいろ教えてもらいましたよ」
「おれのことばっかりだろう?」
「俺はあなたの護衛だったのだから、あなたのことを知ることも大事だと思いますよ?」
 普段の彼の日常を垣間見て、出向いた場所、出会う人が皆、魔王陛下と一緒にいるコンラートを当然のように受け入れる。
 記憶がないと告げれば、曇らせた顔をユーリに向けて「心配ですね」と同情し、コンラートに対しては「陛下がいれば大丈夫」と一様に励ますのだ。
 彼がいれば大丈夫。そう告げられる度に、面映い気持ちになる。
 記憶を失くす前の自分は、とても幸福だったのだろう。
 だから、コンラート自身は現状にとても満足していた。けれど、彼はやはり不満なようで。
「おれひとりで空まわってるみたいだ。あんたはぜんぜん記憶を取り戻したがってるように見えない。あんたがそんなんじゃ、戻る記憶も戻らないだろ」
 そういうものだろうか。
 もちろん、思い出したい気持ちはあるのだが。
「もっと個人的なこととか知りたくないわけ?」
 個人的−−思いつかずに瞬いたコンラートを見て、ユーリはため息を付ながらベッドの上に身を起こした。
「ちょっとそこに座って」
「はい」
 ここはコンラートの部屋のはずだが、まるで彼が主のようだ。促されるままにベッドの端に腰を下ろしたコンラートは、おとなしく次の言葉を待つ。
「お袋さんとか、兄弟のこととかさー。ツェリ様は自由恋愛旅行中で不在だから仕方ないにしても、グウェンとかヴォルフとほとんど話してないだろ? あ、もちろんおれが任されたんだから、途中で投げ出すつもりはないけど」
 コンラートが目覚めるのを待ってユーリが呼びに行った者たちの中に、兄と弟がいた。記憶喪失という診断結果に眉間の皺をさらに深くしながら、コンラートに「ゆっくり休め」と声をかけた兄と、逆にユーリがなだめるまで賑やかに「軟弱な」「気を抜いているからだ」などと怒っていた弟を思い出す。似ていないように見えたけれど、二人の瞳の中に確かに心配の色が滲んでいた。
 あれから何度か顔を合わせるたびに短い言葉以上に雄弁な視線がコンラートを気遣ってくれていた。
 似てないようにみえて、意外と似てるところもあるんだと、ユーリも言っていた。コンラートも含めて、らしいのだが、そこはそのうち分かるのだろうか。
「見捨てられなくてよかった」
「そんなことするわけないだろ。んで、あんたは気になることないわけ?」
 身を乗り出したユーリとの距離が近づいた。貴色なのだと教えてもらった真っ黒な瞳を見つめ返しながら、やっぱり気になるのはこの少年のことばかりなのだから、コンラートは困ってしまった。
 口にしようものなら、彼はきっと怒るだろう。たった三日だけれど、そうだと分かる。
「うーん……困りましたね」
 答えられないコンラートに、ユーリは明らかに落胆した様子で手にしていた枕で自身の膝を叩いた。
「ったく」
「すみません。気になること……例えばどんなことですかね?」
「えーっと、趣味とか?」
 これはもう分かっている。それを”彼”の方が理解しているか分からないけれど。ふ、と笑みを零して見つめるコンラートの視線に、俯いてしまった彼は気づかない。
「あとは、こ、恋人とか、あ、いや、なんでもない」
 こいびと。
 発言を慌てて取り消した彼は、相変わらずコンラートから視線を逸らしたまま再びベッドに横になってしまった。
「もういい。おれは寝るから、あんたも寝ろよ」
 こちらに背を向け、布団を被った彼が寝ようとしているベッドはコンラートのもので、ひとり用だ。彼は小柄だから、一緒に眠れなくはないけれど、お世辞にも快適とは言えない。
 彼の部屋には、もっと上等な寝具があるのに、まだ話し足りないからと今夜も彼は当然のようにコンラートの部屋に泊まることを選び、コンラートの部屋のクローゼットから寝間着を取り出した。いつでも来れるように用意してもらっているのだと言っていたが、用意しているのはたぶん、コンラートの想像通りなのだろう。
「……寝ないの?」
 ベッドを半分空けてくれているユーリが、こちらを振り向き不思議そうに訊ねてくるから、コンラートは部屋の明かりを消すために立ち上がった。
 暗くなった部屋の中、隣に潜り込めば彼がいる側がわずかにあたたかい。
「明日は、ボールパークに行こう。それから、あんたとおれの馬も紹介しないとな。おれの馬、アオっていうんだけど、あんたが育ててくれたんだよ。あ、記憶がなくても乗馬ってできるのかな?」
「あなたにカッコ悪いところは見せられないので、がんばります」
「また、あんたはそんなこと言っちゃってさ」
 本心で告げた言葉は、残念ながら本気にしてもらえなかったようだ。記憶を失う前の自分のせいかもしれないと、少しだけ過去の自分を恨めしく感じながらも、彼がほんの少しでも笑ってくれたのでよしとする。
 それでも、相変わらずこちらに向けられたままの背中がさみしくて、コンラートは両腕を伸ばした。
 後ろからそっと引き寄せると、一瞬だけ竦んだ身体が逃げることなく腕の中に納まった。ひとまわり小さな身体は、よく腕になじむ。
「趣味も、恋人も、興味がないから聞かなかったんじゃないんです」
 あなたがいてくれたから、訊ねる必要がなかったのだ。
「あなたと過ごす時間が楽しすぎて、もっとこのままでいたいなんて思ってしまったのかも知れませんね。でも、同じぐらい取り戻したいとも思っているんですよ」
 彼との大切な思い出を、思い出したくないわけがない。
 コンラートはいとしい少年へと囁きかけながら、その柔らかな髪に鼻先を埋めた。





「記憶喪失の間のこと、覚えてないわけ?」
 問いかけとともに、白球が青空に弧を描く。
 パシンという乾いた音とともに手のひらに心地よい衝撃を感じながら受け止めたボールを、コンラートは同じ軌道で投げ返した。
「ぼんやりしていて、はっきりしませんね。どちらかというと、知らないうちに三日が過ぎていた、と言った感じでしょうか」
 ずっと眠っていたといわれても信じたかもしれない。目覚めた直後ははっきりと覚えていた夢の内容が、時間の経過とともにぼやけ、最後にはまったく思い出せなくなる感覚に似ている。
「不思議なもんだな」
「そうですね」
 まったくです、と同意を示せば、一定のリズムで繰り返されていたボールの音が止んだ。
「あんたは、記憶が戻っても動じないんだな」
 呆れた声を出したユーリが、ボールをグラブに収めたまま二十メートルほどの距離を駆け寄ってくるから、コンラートの方からも近づいた。
 も、ということは他にもあったということだ。
「記憶がない間の俺は、何かご迷惑をおかけしましたか?」
 思い出そうとしてみるが、三日間の記憶が曖昧だ。なにか迷惑でもかけただろうかと聞いてみれば、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「別に。普通だったよ。びっくりするぐらい、いつも通り」
「でも、何も覚えていなかったんですよね?」
「覚えてないんだけど、普通に元気にしてたんだよ。ぜんぜん焦ったりしないもんだから、あんたは記憶を取り戻す気がないんじゃないかって、こっちのほうが焦っちゃったし」
「まさか」
 冗談だろうと思うのだが、彼の表情は真剣そのものだから、冗談とも言い切れない。
「それは、ご迷惑をおかけしました……」
「まあ、普段と違って、あんたのお世話をするのも楽しかったけどさ」
 どんな理由があったにせよ、自分が彼のことを忘れる日がくるなんて思いもしなかった。いつだって、どんな時だって、優先順位の一番は彼なのに。
「でも、やっぱり戻ってくれてよかったよ。安心した」
 先ほどまでとはうって変わって、ユーリが笑った。こちらを見上げる満開の笑顔に、沈みかけたコンラートの気持ちが浮き上がる。
 彼のことを忘れてしまっても平気でいられたのだとしたら、理由はひとつしかないだろう。
「俺も、思い出せて本当によかったです」
「ホントに?」
「もちろん。それに−−」
 記憶がない間、ずっと傍についていてくれたとのだと聞いた。
 まっすぐに向けられた漆黒の瞳を見下ろして、コンラートは口許を緩め、そして、すべりそうになった口を寸前で止めた。
「いえ、何でもないです」
「なんだよ、言いかけておいて」
「忘れてしまいました」
 彼のグラブからボールを取り上げて、数歩下がれば、キャッチボールの再開を察してユーリの方も下がっていく。
「いきますよ」
「おー、ばっちこーい」
 平気でいられたとしたら、それはきっと傍に彼がいたからだ。そう告げたなら、彼は驚くだろうか。もしかしたら、呆れられるかもしれない。
 ずっと一緒にいられた三日間を忘れてしまったことが残念だ。きっと、彼はとても一生懸命でいてくれたことだろう。
 楽しそうにボールを受け、そして投げ返すユーリを見つめながら、消えてしまった三日間へとコンラートはそっと思いを馳せた。


(write:2018.07.22/up:2019.07.01)