はじまり 1
魔王陛下の朝は早い。
何度目かのスタツアを経て、そろそろ眞魔国の暮らしに慣れてきた若き二十七代目魔王陛下であるユーリは、前日も遅くまで続いた執務の疲れが残っているのかぐっすりお休みのご様子。
名づけ親兼護衛であるウェラー卿コンラートは、いつも通りに主を起こすべくベッドサイドへと近づいた。
たとえもうすぐ自ら起こすことになるのだとしても、ほんの僅かでも寝かせておいてあげたいという気持ちが、扉の開閉音や足音はては気配までを最小限のものへと変える。
どんな夢を見ているのか、枕を抱き込むようにして気持ちよさそうに睡眠を貪る様子には年相応のかわいらしさがあり、コンラートは表情を和らげた。
「陛下…」
起きてください、と続けるはずの言葉は、寝返りをうつ動作を見て途中で途切れた。
起きるかな?と眺めてみるが、まだまだユーリは眠っていたいご様子。
口端から零れた涎が唇を僅かに濡らし、カーテンの隙間から零れる光に照らされる。
綺麗だ、と認識するよりも先に、気づいたときには薄く開いた唇へ指先が伸びていた。
形を確かめるようにそっと触れる。
微かに零れる寝息を受け、指先が熱を持つ。
「うぅ〜ん」
覚醒しかけた主の眉が軽く動いたのに気づき、コンラートは慌てて手を引いた。
「おはようございます、陛下」
「へーかってゆーな…」
多少呂律が回らないながらも目が覚めた主へ、何事もなかったかのように話しかける。
何度も繰り返した、そこまでがもはや朝の挨拶に含まれてしまうやりとり。
「はい、ユーリ。起きてくださいね。ロードワークの時間がなくなってしまいますよ」
「それは困る」
ベッドから起きだすユーリへと、侍女があらかじめ用意しておいた着替えを渡してやる。
覚醒してしまえば寝起きが悪くない主は動きが早い。すばやく着替え終え、軽く全体をチェック。
「着替えかんりょー。さぁ、走るぞ」
「寝癖ついてますよ」
「え、まじ?」
手櫛で整えようとするが鏡を見ないために位置がちがう。
「ここです。はい、なおりましたよ」
「さんきゅ」
感謝と共に零れる笑顔は、先ほどの艶など感じさせない健康的な少年のもの。
「いきましょうか」
「おう。朝飯に遅れるとヴォルフがうるさいしな」
いつもと変わらぬその笑顔と対照的に、いつもとは違う自分の気持ちを自覚し、内心ではやや戸惑いながら。
そんなことには全く気づかぬ主を促し、コンラートは王の寝室を後にした。
数歩前を元気に走る少年は、名付け子であり、仕えるべき主だ。
最初から愛すべき存在ではあったけれど、それは庇護するべき対象としてだったはずなのだが。
先ほど触れた指先がいまだに熱い。
唇や吐息の感触が消えてしまわないように、ゆるく指先を握りこむ。
「触れたい」と思ってしまった。
いつのまに愛情の形が変化してしまったのか。
もしかしたら最初からだったのか。
朝の冴えた空気の中、コンラートは考える。
この気持ちの置き場を。
(2009.07.22)