船上にて
ここは、聖砂国へと向かう船上。
夜の海は、穏やかだった。起きている船員は少なく、賓客であるユーリへと声をかけてくる者もいない。
波の音だけが響く中、ほのかな月と星の明かり、そして空と海の闇に抱かれながら、ユーリは夜風に漆黒の髪を揺らした。
先ほどまでは船室で船酔いに悩まされているヴォルフラムの看病をしていたのだが、昼間の騒動でユーリ自身も少々疲れていた。少し外の空気を吸いたいと、ヨザックに交代を頼み、甲板へと出てきた。
本来ならば魔王一人で出歩くことなど許されないのだが、部屋へ戻ってくるまでお庭番は船内のチェックをしてくれていたのだろう。少しだけですよ、と快く許してくれた。その心遣いが、今のユーリにはありがたい。
目を閉じると、昼間の出来事が思い出される。
自分を抱きとめてくれた腕は、変わらずに力強く、そして温かかった。
どうして、と思う。
彼が何も語らない以上、いくら考えてもユーリには理由が分からず、ただただ苦しくなる胸の痛みをやりすごすしかないのだが。
ふいに、空気が揺らいだ。
足音はしなかった。気配も消していたと思う。
けれどユーリには分かった。
振り返れば、彼がいることが。
『コンラッド』
声にはせずに、唇だけを動かしてみた。
会いたくて会いたくて、夢にまで見た人がいるのに、王である自分がその名を口にすることを許さなかった。
「ウェラー卿」
背後にいるはずの彼へと呼びかける。努めて、冷静に。
返事がない。
しばしの逡巡の後、自分の勘違いだったのかと振り向むこうとしたところで、ようやく背後の人物が近づいてきた。
「こんな夜更けに、一人歩きとは物騒ですね」
少し咎めるような声は、間違えなく彼のものだ。
「それは小シマロンが、俺の命を狙っているとでも?」
「いえ…」
ここ小シマロンの船であり、サラレギーに迎えられてユーリはいまここにいる。それに属する人間として、ユーリの問いは肯定できるはずがないだろう。
足音が隣で止んだ。
かつての彼ならば肩の触れそうなほどの距離にいただろう。
だが、今は違う。
温もりを感じさせぬ距離が、今の二人の関係をよく表していた。
「よく気づきましたね」
「空気、かな…」
怪訝そうな表情。銀を散らした瞳が僅かに窄まる。
「懐かしい感じがしたんだ」
我ながら、おかしなことを言っていると思う。小さく笑いながら、ユーリはようやく隣の男へと視線を向けた。
一瞬だけ絡まった視線からは、彼の表情は読み取れない。僅かな期待も悲しみも悟られぬように、ユーリは再び深い闇のような海へと視線を戻した。
「少し前までいた護衛が、俺の後ろに控えている時と同じ感じがしたんだ」
まるで空気のように、そこにいることが自然で、かけがえの無いものだった。
ただ一人失っただけで、世界ががらりと変わってしまうことを、彼は知っているだろうか?
「護衛、ですか…」
「そう。最悪なの。理由を言わず主人を置いて、勝手にどっか行っちゃったけど」
なんでだ?
問いかけたい衝動。
「なぁ」
「はい」
「ずっと一緒にいる、って約束を破って、何も言わずにいなくなる理由って何だと思う?」
彼はなんと答えるだろう。
会話が途切れると、そこには風の音しか残らない。
夜の闇が支配する世界。
このまま、時が止まればいいのに。
「俺には判りません。ただ…」
「ただ?」
「そんな相手、忘れてしまえばいい。忘れて、あなたはあなたの成すべきことをすればいい」
忘れてしまえばいい。
それが答えだろうか。
簡単に忘れられるならば、最初から聞いたりしないのだ。
そして、彼は勘違いしている。
ユーリが訊ねたのは、出奔の理由であり、それに対してのユーリのとるべき行動ではない。
不思議と心は静かだった。
「そいつが戻ってきたら、ニ、三発殴ってやるんだ」
「戻ってくる保証などないでしょう?」
そんなことは知っている。
いつだって不安だ。
一緒に帰ろうと差し伸べた手を拒絶された時の絶望感、自分の世界が崩れる感覚、忘れられるはずがない。
けれど。
諦められない、諦めたくないんだ。
「俺は、信じるって決めたんだ。そいつは戻ってこないかもしれない。でも、いくら待つなだの忘れろだの言われたって、忘れてなんてやらない。誰も俺の気持ちを変えることなんてできない」
きっとまた、冷たい言葉や視線をもらう度に、気持ちは揺らぐ。
傷つくこともあるのだろう。
今だって、たった数歩の距離にいるのに、永遠に埋まらない溝のように遠く感じて胸が苦しい。
「俺はワガママなんだ。欲しいと思ったものを諦められるほど、聞き分けよくなんてなれない」
「その護衛は、幸せ者でしょうね」
呟いた彼が、笑った気がした。
すぐに船室へと歩き出してしまった彼は既に背中を向けていて、確認する術はなかったけれど。
大丈夫、まだ頑張れる。
見上げた空には、彼の瞳と良く似た星が散っていた。
(2009.08.01)