帰還 −3.グウェンダル−


「疲れているところ、すまないな」
「あ、いえ…」
 兄であり宰相でもあるグウェンダル。彼の口から漏れた珍しい労わりの言葉に、コンラートは驚きを隠せなかった。

 医務室から自室へと戻る途中で、兵士に呼び止められた。宰相閣下がお呼びだという。
 詳しい報告は明日と言われたが、今日、しかも彼の私室に呼び出されるということは、陛下には聞かせたくない話があるのだろう。
 彼の私室を訪れたコンラートは、簡素なテーブルセットで兄と向かい合っていた。
「飲むか?」
 夜着にガウンを羽織る彼が、葡萄酒の瓶を傾けた。
 戸惑いながら頷く。彼が用意したからには上等なものなのだろう。すぐに鼻腔を芳醇な香が擽った。
 勧められるままにグラスを傾けると、ちりっ、と口端の傷が主張を始めた。
「傷に染みるか」
「いえ、大丈夫です」
「怒らないでやれ。あれも心配していたのだ」
「分かっています」
 彼は弟に甘い。
 謁見の間でのことを思い出す。泣くのを堪えながら、拳を振り上げた弟のことを。
 怒るはずがない。怒れるはずがない。悪いのは全て自分だ。
 頷き返した俺を、彼は何か言いたそうに見ていた。


「正直、驚いた」
「俺が戻ってきたことが?」
「いや、先ほどの陛下の態度だ」
 言葉が足りないのは彼の数少ない欠点の一つだ。寡黙は美点と捉えることもできなくはないが。
「落ち着いてらっしゃいましたね」
「あぁ、感情のみでおまえを庇われては、助けられるものも助けられなくなる」
 本来の主は、頭よりも身体が先に動くタイプだ。事前に言い含められていたとはいえあれほど完璧に役目を果たすとは、彼も思っていなかったのだろう。
 状況に合わせて動けるようになったのは良いことだ。
 本人の前で言ってやれば喜ぶのだろうが、彼は言わないのだろう。
「おまえが出て行ってから、尚更しっかりしたように思う」
「俺が甘やかしすぎていましたかね」
 苦笑が漏れる。
 自分の知らない時間がある。自分の知らない主がいる。それが少し悲しいなんて、思うこと自体が間違っているのに。
 コンラートの表情の変化に、目の前の彼の眉間の皺が深まった。
「おまえが出て行ってから、あれは朝一人で起きるようになったそうだ。執務中に休憩を求めることも、抜け出すこともなくなった。城下に遊びに行きたいと駄々をこねることもなくなった」
「立派になられましたね」
「本当にそう思うか?」
 彼が手にしていたグラスを置いた。空いた両手を組みながら、問いかける瞳は何かを伝えようとしている。
 全てが良いことのように見える。
 けれど、自分達は知っているのだ。主の本質を。
「朝起こしていたのも、執務の合間に茶を用意していたのも、甘やかして連れ出していたのも誰だ?」
「それは…」
 自分だ。
 遠い過去のような、幸福な日々。
「分かってやれ。おまえのしていた事を、おまえ以外にさせたくなかったあれの真意を」
 戻ってこれるように。誰にも譲らなかったのだ。
 黙って、ただ黙って、護ろうとしてくれていた。
「余計なことを言ったな」
「いえ…」
 彼は弟に甘い。
 そして、俺自身も彼の弟であることを、思い出した。


 それっきり二人は黙り込み、苦痛ではない沈黙の中で、葡萄酒がなくなるまでただ酒を酌み交わした。
 静かな夜だった。


(2009.08.08)