帰還Ex
「これで終わり?」
「あぁ、そうだな」
「お疲れ様でございました、陛下」
机の上にあった最後の書類へとサインを終えた王は、念のためにと傍らに控える宰相と王佐へ確認をとる。
二人が頷くのを見て、ようやく解放されたと大きく伸びをした。
日がまだ高い。こんな時間に執務を終えるのは久しぶりだ。
ここ数日、積み重なった書類に埋もれる日々であったが、それもようやく落ち着いた。王以上に仕事をこなす宰相と王佐も、心なしか表情が緩んでいる。
「今日はもう終わりにしてよろしいですよ」
「まじで?やった」
無意識に、視線が壁へと向いた。そこには無機質な石壁しかない。
そこに立つ人はもういない。頭では分かっているはずなのに、自分の中の納得しきれない部分が彼を探そうとする。
空いた半日、何をして過ごそうか。
以前の自分ならば悩む必要もなくキャッチボールだった。だが、キャッチボールは一人では出来ない。
「少し休もうかな」
「最近、お忙しかったですからね」
王佐の労わりの言葉に、曖昧な笑みを返して執務室を出た。
執務室の外に控えていた兵士が、敬礼をした後に後ろをついてくる。
回廊を歩く。
今日も良い天気だ。
誰かが水を撒いたのだろう、中庭の芝生が陽の光を反射して輝いていた。
お日様の匂い。
ボールを受けたときの心地よい衝撃。
投げ返す為に見つめた前方にある笑顔。
声をかけあいながら、ただボールを投げあう。
それだけの行為が、とても楽しかった。
「陛下、如何なさいました?」
「いや、なんでもないよ。いい天気だなと思ってさ」
名前は何だったか。
人の良さそうな兵士が同意するように笑顔で頷いた。
専属護衛がいなくなって久しい。今では移動中の陛下の警護は、交代で兵士が行っている。
再び歩き出すと、一定の距離を空けて兵士がついてくる。
使われることのなくなったグローブとボールは、今では私室の引き出しの奥深く。再び愛用される日を待ち続けながら、眠っている。
「少し疲れたみたい。夕食まで眠るから、時間になったら迎えに来てくれるかな?」
「承知致しました」
敬礼する兵士に、ありがとう、と笑いかける。
一人になった部屋で、大きく息を吐くと、学生服に似た黒衣の襟元を緩めて、寝台へと倒れこんだ。
『ほら、陛下。お休みになるなら上着を脱いで』
脱いでと言いながら、伸びて来た手が上着を脱がせてくれる。
優しく髪を梳いてくれる。
眠るまで一緒にいてくれる。
眞魔国に帰ってきてからこっち、執務に追われている間は良かった。
目の前の書類に向き合っている間は、余計なことを考える必要が無かった。
今は時間があることのほうが、辛かった。
この国での生活の全てに、彼の残り香がある。
「コンラッド」
名前を呼べばいつだって返事を返してくれた人は、今はもうこの城にいない。
この世界へやってきた時から隣にいた。当たり前だと思っていた現実は、簡単に否定されてしまった。
様々なことを教え、護り、与え、導いてくれた彼は、世界そのものだったのに。
たった一人の不在により、たくさんの物を失い、けれど得た物があることにも気づく。
一人が欠けたところで、現実は回り続けることを知った。
楽しくなくても笑う術を知った。
そんなこと、知りたくなかったけれど。
目を閉じると、場面が変わる。
夕食を終えて自室へと戻ると、ほどなくして窓を叩く音がした。
月明かりに照らされたオレンジの髪。
「ヨザック」
窓の鍵はかかっていたはずなのだが、お庭番にはそんなこと関係ないらしい。王に自らの存在を知らせると、彼は難なく部屋への侵入を果たした。
「帰ってきてたんだね」
「えぇ、報告も終わって時間できたんで、ちょっと坊ちゃんのごご機嫌を窺おうかと思ってね」
彼の持ち前の気安い笑みは、近づくにつれて引っ込んだ。
「少し痩せましたか?」
「運動不足、かな」
最近はロードワークもキャッチボールもしていない。
「親分が心配してましたよ」
「グウェンが?」
「坊ちゃんがあんまりにも真面目にお仕事するもんだから、悪い病気じゃないかって」
からかい口調のお庭番だが、その目は先ほどまでとは違い笑っていない。探るような視線から逃れるように、ユーリはそっと目を逸らした。
「なんだよ。俺だってやれば出来るんだから」
「そうですね、坊ちゃんは頑張り屋さんだ」
子供にするようにくしゃりと頭を撫で、ヨザックはその立派な上腕二頭筋で小さな身体を捕まえた。
「ちょっと、ヨザッ…?」
「隊長に見られたら殺されそうですが、まぁ、いない方が悪いってことで」
逃げるようにもがく身体は、「隊長」という単語にぴたりと固まった。
「確かに坊ちゃんは王様ですがね、俺たちから見ればまだまだ子供なんですよ。子供は元気でいることと、甘えることが仕事ですよぉ?」
子供。
名ばかりの何も出来ない王様。
理想ばかり追い求めて、現実はどうだ。手に掴んだものが、指の隙間から零れ落ちていく。
「坊ちゃんがいじらしく無理に笑うから、みんな心配なんですよ。辛ければ泣けばいい。悲しいなら嘆けばいい。怒ったっていいんです」
悔しい。悲しい。切ない。苦しい。
けれど、泣けない。
心配をかけたくなかった。立派な王様になりたかった。
そして、認めたくなかった。彼がいない現実を嘆いてしまったら、悲しみに押しつぶされてしまう気がした。
「今だけ、俺のこと隊長だと思っていいですよ?」
「……似てないよ」
抱きしめてくれる腕も、包み込んでくる匂いも、求めているものではない。
けれど、温かかった。
鼻の奥がツンとした。
心配かけないようにと頑張ってもバレバレで、実際にはこうやって心配をかけてしまう自分が情けない。
「隊長とは長い付き合いですからね。何をしようとしてるのかは分かりませんが、誰の為かはわかりますよ」
「ヨザックはちゃんと信じてるんだね」
信じていいのだろうか。
当たり前のように隣にいた人が、一人消えた。
けれど、日常は回っていく。
まるで何でもないというように。
「俺だけじゃないですよ。みんな照れ屋なんで口にしませんがね」
いなくても変わらないからではない。
いつか戻ってくるから、なのか。
「グリ江ちゃん、力強すぎ。ちょっと痛いよ」
「あら、グリ江やりすぎたかしら。痛くて涙出ちゃいますね」
抱きしめられるままに、ヨザックの胸へと顔を埋めた。
素直に泣くのが悔しくて歯を食いしばり嗚咽を堪えた。けれど、溢れ出る涙が止まらず、彼の服を濡らす。
ただ黙って抱きしめていてくれる優しさは、少しだけ似ているかもしれないと思った。
「…リ、ユーリ?」
名前を呼ばれて、我に返る。
「眠るならばお部屋に」
「いや、大丈夫」
午後のお茶をして小腹が膨れたところで、軽く眠りかけていたようだ。
浅い眠りが、少し前の記憶を連れて来たらしい。
信じていてよかった。
目の前にある心配そうな、けれど優しげな笑顔に、胸が温かくなる。
ただ一人がいないだけで世界が終わってしまうような気持ちになった。
いまは、ただ一人がいるだけで、世界が眩しく見える。
「キャッチボールしようぜ」
「えぇ、いいですよ」
立ち上がったユーリは、久しぶりに手にしたグローブの感触に目を細めた。
(2009.08.14)