heartless lover


 魔王の私室にて。
 いつもの穏やかな笑みを絶やさない護衛が、珍しく不機嫌を顕にしてカウチへと座る魔王陛下を見下ろしていた。
「陛下」
「……」
 呼びかける声に返事はない。代わりにパラリと魔王が手にした書類を捲る音が響いた。
「陛下」
「……」
 もう一度呼びかける。
 返事がないのは呼び方のせいなのか、集中しているからか。
「ユーリ」
「なに?」
 どちらでもあったらしい。彼が望む通りの名を口にすると、邪魔されたことに対するものだろう僅かに不機嫌さを覗かせながらも返事がある。
「お茶です」
「うん、ありがと。置いといて」
「ユーリ」
「悪いんだけど、ちょっと黙ってて」
 忙しいのは分かるが、この態度はいかがなものかとコンラートは考える。
 新しい政策を早期に実施したいというのは立派なことだし、逸る気持ちは分からないでもない。だが、食事中に交わす会話も仕事の話ばかり、夕食の後も真っ直ぐに執務室へ戻っていく生活は名付け親としても恋人としても大変おもしろくない。
 ここ数日の経験から、ここで止めなければ日付が変わる頃合まで執務室に篭るだろうことは明白で、半ば実力行使で魔王の寝室へと連れ戻したまではよかったのだが、最後の抵抗にと書類を一束確保されていたらしい。
 コンラートは大きく溜息を吐いた。
 いつから、こんな風になってしまったのか。魔王としての自覚が出てきたことも、執務に意欲的になったことも素晴らしいとは思う。
 だが、いつからか彼の様子を窺い、頃合を見て逃亡を手助けする必要がなくなってしまったことを寂しくも思う。
 書類を取り上げるべきかと一歩近づけば、身体が灯りを遮り視界が暗くなったことが気に入らないらしいユーリが見上げてくる。
 睨むような視線を受け止め、コンラートは心配と不満たっぷりの強い視線で見つめ返した。無理やりベッドへ運ばれたいんですか、という脅しも込めて。
「わかったよ。隣、座って」
 柔らかなクッションを退けて隣を空けたユーリが、自らの横を叩いて示す。ようやく自分の想いが伝わったのかと、表情を和らげた。言われるままに腰を下ろしたコンラートは、いきなり肩を引き寄せられて、気づいた時にはユーリの膝へと頭の乗せていた。
「ユーリ?」
「そこで大人しくしてて」
「……」
 子供でもあやすようにポンポンと軽く頭を叩いた後で、再び書類に集中しはじめたユーリへとコンラートは胡乱な目を向けた。
 今の自分は、ひどく不当な扱いを受けている気がする。
 視線の先のユーリは、コンラートのことなどお構いなしな様子で、時折考え込むように顎に手を当てながら書類を眺めている。
 僅かに顰められた秀麗な眉だとか、物憂げな瞳は大変美しい。
 見慣れたはずの貌も、見上げるという珍しいアングルからでは新鮮さがあるなどという新たな発見に感心しつつも、この不当な扱いに自分が不満を持っていることどうすれば伝えることができるのかを考える。
「コンラッド」
「はい」
「あんまり見られてるとやりにくい。やっぱ邪魔だから、そこどいて」
「嫌です」
 呆れたような冷気を含んだ視線が突き刺さる。だが、コンラートは怯まなかった。このところ蔑ろにされがちな恋人としての自分の行動の正当性を声高に主張したい。
「ユーリ」
「なに?」
 腕を伸ばす。
 書類を取り上げられるとでも思ったのだろう、ユーリが書類を手にした腕を上げた。
 気にせず頬へと触れて輪郭を確かめるように撫でる。忙しさで少しだけ痩せた気がする。たぶん、本人さえ気づかない程度に。
 彼が魔王であることと、そんな彼に仕えることが出来ることは、またとない喜びであり、この関係の大前提だ。
 魔王ではない自分だけの人であったならばと思わなくもないが、彼が自ら魔王であることを望む以上は考えても仕方がない。

『俺と仕事、どっちが大事なんですか』

 そんな言葉を口に出すことができないほどに、彼の肩にかかるものは大きい。
「愛してます」
「知ってるよ」
 だから、代わりに心を込めて囁いた言葉を、あっさりと受け取ってしまう人を恨めしく思う。
「あなたって人は……」
 この人はどれだけ自分が想われているのかを理解しているのだろうかと、ついでに俺のことを本当に愛してくれているんですかねと疑いたくなる。
「ちょっとあなたの愛を疑いました」
 不本意だけれど寝心地だけは良い膝から起き上がり、ずいと顔を近づけた。
 反射のように後ろへ逃げられるのでじりじりと距離を詰める。狭いカウチの上ではそれほど逃げ場がなく隅へと追いやられたユーリは眉根を寄せた。
「あーもー。俺が悪かった!いい大人が、拗ねるなよ」
「すみませんね、みっともなくて」
「ちゃんと愛してるって。疑うな。それぐらいわかっとけ」
 愛していると言いながら、ひどい言い分だ。
 疑いの視線を向けると、ユーリは笑ってみせた。大人になってしまった彼は、年齢を重ねた分だけ誤魔化すというスキルを見につけている。引っかからないというように手を差し出したコンラートは、一瞬だけ見せられた不満そうな顔を見逃すことなく半眼になった。
「わかった。今日の仕事は終わり、な?」
 ようやく渡された書類を受け取るなり、彼の手の届かないところへやるべく背後へと放り投げる。
 バサバサという盛大な音と、目を丸くするユーリに少しだけコンラートは溜飲を下げた。何事か口を開きかけたユーリは、結局、咎めて事態を悪くするような愚を冒さず、おとなげない男の肩へと額を押し付けた。
「後で揃えるの手伝えよ」
「明日、あなたが目覚めるまでにはやっておきます」

 仕事をしすぎだとか、もっと自分を労われだとか、ついでに俺のことも労わってくださいだとか、言いたいことはたくさんあるが。
 ようやく今の時間だけは自分のものになってくれた恋人を補充するべく、コンラートは強くその身体を抱きしめた。


(2009.10.01)