広がる青空
「結婚しませんか?」
あんまりにも唐突に言われたものだから、おれの思考は一時停止した。
結婚。
誰が? いや、この場合はおれに言われているんだから、おれが、か。
「誰と?」
「俺以外の誰と結婚する気ですか」
あっさりといつもの微笑さえ浮かべてプロポーズをしてみせた男の顔が、とたんに曇る。突拍子のない申し出よりも、ただ単純に目の前の男の表情が曇ったことの方が気に掛かってしまうおれは、正常な思考回路ではないのかもしれない。
「そんな顔するなよ」
「させているのは貴方です」
このところ仕事が忙しかった。忙しいのは諸外国との問題が解決し、国内に目を向けることができたためだ。もう何十年も前の地球の記憶を必死に引っ張りだし、真面目に勉強をしてこなかった我が身を反省しながら、学校の整備や公共事業の拡充に奔走する日々は忙しくも充実していた。
それなりに魔王業も板につき、宰相や王佐に任せなくても判断ができるようになると楽しいもので。ついついオーバーワーク気味になっている自覚はあったのだが、それなりに基礎体力があるので倒れるほどでもない。
「なんで、いきなりそういう話になるわけ?」
珍しく、尋ねられる前にお茶の用意がされていた。しかも、執務室ではなくテラスに。
書類仕事の続きをやりたいと後ろ髪引かれながらも、半ば強引に急き立てられてテラスに出た。いつの間にか日向には春の匂いがして、去年、雪解けによる洪水で川が氾濫したことが頭を過ぎる。今年は対策をたてたが、大丈夫だろうか…。
「ユーリ?」
「なに?」
「今ぐらい、仕事のことは忘れてください」
今とは、休憩時間ではない。この男と過ごす時間、ということだろう。カップにはまだ半分ほど中身が残り、湯気を立てているのに。お茶にしようと誘った男に肩を抱かれ、引き寄せられた。
「北の村は大丈夫かな」
「あなたって人は…」
そのまま更に肩が倒され、目の前に空が広がった。もう、どんよりと薄暗い雪雲はどこにもなく、広がるのは澄んだ青だ。頭には硬いほどではないが、柔らかいともいえない大腿の感触。
戻ったら、やはりもう一度状況を確認しようと考えたところで、視界から空が消えた。代わりに広がったのは、夜の空を思わせる銀色の彩光。
茶器を巧みに操っていた指が、先ほどよりも繊細な手つきで頬を撫でる。
いつものように、仕方がない人だと言いたげな笑みを浮かべた男は、まるで明日の予定を提案でもするように冒頭の言葉をおれに投げかけた。
「なんでいきなり?」
「いきなりでもないですよ。俺はずっとしたかったですから」
何十年も一緒にいれば揺らぐこともあったけれど、それでも今の状況に満足しているし、パートナーとしての良好な関係をずっと続けたいと思っている。
子供時代を過ごした地球の基準の、結婚とは男女で行うものという考えが根付いていることも否定できない。結局のところは、今の関係が楽だというのが理由の大半を占めているのだが。
「おれは、いまのままでも満足してるんだけど」
「でしょうね」
いつまでも晴れることのない表情を見ていられなくて、視線を僅かに逸らすと再び青空が視界に入った。
日向は暖かい。頭に感じる男の体温も、温かい。
「結婚かぁ」
それで、何が変わるのか考えてみる。
眞魔国は一夫多妻制ではないから、煩わしい縁談話がなくなるかもしれない。自分はもちろん、恋人宛にもこなくなるのは、喜ばしい。王配殿下となったら、護衛はどうなるのだろうか。きっと、他の者に譲る気なんてないだろうから、その辺りはどうにでもしてしまうのかもしれない。
祝宴は面倒だ。でも、誕生日と違って一度きり。冷やかされることは…今更か。
「機嫌を直せ」
「無理です」
仕方がないじゃないか。王になることをこの男が望み、この男に認められたいと思ってしまったのだから。
頭脳派ではないのだから、そのぶん努力しなければならない。
「良い天気だな」
「そうですね」
不機嫌な顔などしてないで、空でも見ればいいのに。あえて逸らしていても、男の視線を痛いほどに感じる。
書類は机の上に積みあがっている。明日の会議の準備もある。
けれど、そんなことに関係なく空は青い。
「おれは王様を辞められないし、これからも、きっと仕事優先だから」
「分かっています」
出会った頃は、仕事などもう嫌だとおれが騒ぎ、逆に慰められていたというのに。いつから、逆転してしまったのだろう。
憮然とした物言いが可笑しくて、視線を男に戻した。見下ろしてくる顔は相変わらず不機嫌だ。ただ、その中にあるのはおれを責める感情だけではないのが見てとれる。きっと口にするまでに、様々な葛藤があったのだろう。
「まぁ、いっか」
誰よりも愛していたとしても、なによりも優先してはあげられないから。
「それぐらいで、あんたの気持ちがちょっとでも治まるなら。しようか」
あんまりにも空が青いから。
恋人の我侭も、それに伴っておとずれるだろう細々とした面倒も、大したことがないように思えてしまったのだが。
「…なんで、あんたそんな顔してんの?」
「本気ですか?」
喜ぶかと思いきや、寄せられた眉根を見せられてしまうとこちらまで困惑するしかない。
「なんだよ、それ。人が、ちょっといいかな、なんて思ってやったのに」
危うく流されるところだった。
「いえ、本気です」
真顔で訂正されたところで、全ては今更だ。
「絶対、結婚なんてしてやらねぇ!」
断られる前提の申し出だったことに今更に気付いて、うっかり本気にしてしまい、あろうことかオーケーしてしまった自分が恥ずかしい。
身体を起こし、引きとめようとする腕を振り払って執務室へと足早に戻る。後ろをついてくる男が吐き出す愛の言葉も、今日ばかりは苦く聞こえる。
通りかかった兵士や護衛たちの微笑ましい視線に、おれは気付かなかった。
(2010.03.02)