いちばん星を君に


 時刻はそろそろ深夜という時間。
 ベッドサイドの灯りが柔らかく照らす先には、広げられた絵本。
「……そうして、お姫様は王子様と幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
 物語を締めくくるのは、お約束のこの言葉だ。
 最後まで読み終えたユーリは、半分落ちかけていた愛娘の瞼が完全に落ちきるのを確認して、口元を和らげた。
「おやすみ、グレタ」
 十歳になる彼女には、誰もが聞いたことのある童話ではいささか張り合いがなかったかもしれないが、昼間たっぷり一緒に遊んだおかげか良い寝物語になったようだ。
 彼女の愛読書である毒女シリーズは確かに面白いし、ユーリ自身も好んで読んではいるけれど、いかんせん内容が激しすぎる。このままでは末は毒女か鬼軍曹か。最近では罠女なるものにも興味があるらしい彼女を心配したユーリが借りてきたのは、可愛らしい童話だった。
 心の優しい幸の薄い女の子が、王子様と出会い、幸せになる。
 一言で説明してしまえば味気がない内容となってしまうが、お姫様というのは女の子の夢みたいなものだろう、と考えてしまうのはユーリ自身の母親の影響かもしれない。
 閉じた絵本の表紙には、綺麗なドレスを着たお姫様が、王子様と一緒に微笑んでいた。手を取り合って、しあわせ、を表現した姿はとても微笑ましい。淡い色合いのそれを一度撫でてから、ユーリは本を抱えて立ち上がった。
 遅い時間とはいえ、この本の持ち主はまだ起きているはずだ。


          ■ ■ ■


 時間を考えて控えめなノックを三回。
「コンラッド、入るよ」
 相手の返事も待たずに宣言通りにドアを開けるのは、この部屋のドアがいつも開いていると知っているから。もちろん、その理由がユーリのためであることも、この部屋の主がいついかなる時もユーリを決して拒んだりしないことも。
「いらっしゃい、ユーリ。どうしたんです、こんな夜更けに」
 僅かに驚いた表情の中に嬉しいという感情を見つけて、ユーリが笑う。
「これ、返しに来たんだ」
 小脇に抱えていた絵本を差し出す。なるほど、と一つ頷いたコンラートは、それを受け取ってテーブルの上へと置いた。
「いつでも良かったんですよ。グレタが気に入ってくれたなら、差し上げてもいいぐらいですが、彼女には少し物足りないかもしれませんね」
「愛読書が毒女だから、そうかもしれないな。でも、やっぱり女の子だから喜んでたよ」
 紅茶? の問いに一つ頷いてソファに座る。慣れた手つきで準備するコンラートを待つ間、手持ちぶさたで先ほど返したばかりの本を手にとった。
「なんか意外だよな」
「なにがです?」
「こんなかわいい絵本が、コンラッドの部屋にあるのがさ。あ、別に悪いって言ってるわけじゃないんだ。なにか、大切なものなんだろ?」
 いくら人当たりの良い男とはいえ、可愛らしい表紙と職業軍人が、ユーリには結びつかない。
 古いもののようだが、状態はとても綺麗だった。かといって、読まれていないわけではなく、何度もページをめくった痕跡はある。
「ヴォルフの小さい頃に、よく読んであげた本の一冊なんですよ」
「へえ、じゃあ思い出たっぷりなんだな」
 懐かしむように微笑むコンラートにとって、それはきっと大切な思い出の一つなのだろう。こういう時に、コンラートが自分に対して嘘をつくような人間ではないことをユーリは知っている。けれど、それが全てではないことも、理解できるほどに近くにいるつもりだ。
 一冊だけ、本棚の奥に仕舞ってあった。
 他に子供向けの本はなく、だからこそユーリの目にとまった絵本。
 それだけではないだろう? と視線での問いかけに、ユーリの前へと紅茶のカップを置いたコンラートが、微笑を苦笑へと変えた。
「あなたが見つけるまですっかり忘れていたんですけどね、俺のお気に入りでもあったんですよ。おかしいでしょう?」
コンラートの問いに、ユーリは別のことを想う。
 少しだけ不幸な女の子の幸せな結末。
 約束された未来と幸福。
「別に、おかしくないよ。女の子のあこがれだろ」
「俺は男ですけどね」
「知ってるよ」
 この本を繰り返し読んだという寂しい少年を、いまのユーリには想像してみることしかできない。決して、不幸だけの人生ではなかったのだろう。けれど、寂しいと感じることも多かったのかもしれない。
 同時に、それを忘れていたと言える今を与えられていることに安堵もする。
 ぱらり、ぱらり。
 文字は追わずに絵だけを追いかけて、膝に載せた絵本を捲る。
 女の子は境遇に負けずに、優しく微笑んでいた。寂しさも悲しみもすべて受け入れて。
 そして、運命に出会うのだ。
「おれは王子様じゃないけど、王子様はいずれ王様になるんだから似たようなものだよな」
「ユーリ?」
 夢のようなお話だが、女の子はただ運が良かっただけではないことに、コンラートは気付いただろうか。
 聡明な王子様が見た目の美しさだけで、結婚相手を選ぶはずがない。
 王子様にとっての女の子は、二人でならば幸せになれる、そう思える相手だったのだろう。
 そう確信させるだけの何かを、女の子は持っていた。
 探していたページにたどり着いたユーリは、ようやく文字を追いかけた。幼い子供向けの童話は、文字の数が少なく、すぐに目当てを見つけ、本を閉じる。
「コンラッド」
「はい」
 絵本の王子様は、女の子の手をとった。
真似るように一度立ち上がったユーリが、代わりにコンラートを座らせ、その前に膝をつく。
 格好をつけてとった手はユーリのそれよりも大きく無骨で、白く細い女の子にはほど遠い。けれど、王子様がそうだったように、ユーリにとっても大切な相手である事実は変わらない。
『あなたを好きになりました。わたしと、結婚していただけませんか?』
 王子様の台詞を真似てみる。『あなた』や『わたし』なんて言いなれない言葉が似合わないのはわかっているが、そこは見ない振りをして。
 絵本のお姫様は、はい、と応えて王子様とキスをした。
 だが、ユーリのお姫様の反応はなく、固まったままでユーリを見入っている。
「どうするんだよ、コンラッド」
 当たり前だが、野球小僧で庶民なユーリよりも、こういう台詞は目の前の男にこそ似合うのだ。勢いとはいえ、自分がしてしまったことを急に恥ずかしく感じるが、全ては後の祭。
 慌てて離そうとした手は、指先が離れきる前に逆に捕まれ、ユーリは逃げ場を失った。
「いいんですか?」
「それを聞いてるのは、おれだろ」
 居心地の悪さに言葉が乱暴になる。握られた手から伝わる熱が全身に広がり、頬までもが熱くなる。
「もういいよ」
「よくないですよ」
 単純に、叶えてやりたいと思った。それで、コンラートが喜ぶならば。できることならば、浅はかな自分を殴りたい。
 あの女の子のように、はい、という返事以外を想像もしなかった。
こんな展開、想定外だ。
「プロポーズですか?」
 結婚の申し込みなのだから、プロポーズに決まっている。冗談でこんな芝居ができるほど、ユーリは決して器用ではないことを、コンラートも知っているはずなのに。
 だんだん険しくなるユーリの表情を見てとり、コンラートが捕まえたままの手を引き寄せた。急に引き上げられた身体がバランスを崩して倒れこむ先は、お姫様の腕の中だ。
「すみません、驚いてしまって」
「……ったく。驚かせるためでも、笑わせるためでもないんだぜ。こんなこと、何度も言わせるなよ。あんたが好きだよ、コンラッド。おれと結婚してください」
 きっかけは些細なことでも、決して軽い気持ちで口にしたわけではない。近くなった距離で、今度は自分の言葉を告げてみる。
「それで、返事は?」
恭しさなどどこにもないユーリらしい物言いに、今度こそコンラートは破顔した。
「はい」
 ようやく出てきたお姫様の返事に、安堵と照れを交えながら、ユーリは王子様がそうしたように、お姫様の唇へと誓いのキスを送った。



 おとぎ話の終わりは決まっている。
 王子様とお姫様は、末永く幸せに暮らすのだ。


(2011.06.01)