バレンタイン


 2月14日。
 本日の魔王の部屋の主は当の魔王陛下ではなく、人々の想いが込められたチョコレートだ。その一つ一つを一日かけて受け取り続けた魔王陛下は、ようやくその役目を終えるなり逃げ込むようにして恋人の部屋を訪れた。



 バレンタインと呼ばれるチョコレート会社の陰謀を異世界に持ち込んだ数年前、もしかしたらチョコレートの一つや二つ誰かからもらえるかもしれないという下心がなくはなかった。実際に、自称婚約者や愛娘、そして同性とはいえ恋人から貰ったり贈ったり、楽しく過ごせる日になったことはとても喜ばしい。ただし、それだけで終わるはずがないという自らの過ちに気づいたのは数年後だった。年を重ねるにつれどんどん魔王陛下の故郷の風習も人々に広まり、年々チョコレートを受け取る数も上昇中。今では集まったチョコレートの山に、思わず部屋から逃げだすほどだ。
 気持ちは純粋にうれしい。けれど、いくら甘いものが好きとはいえ限界がある。
「……うぅ」
 せっかく逃げ出してきたというのに、鼻の奥にこびりついてしまった甘い香りがいつまでもユーリを苛んだ。
「もう、しばらくチョコレートは見たくない」
 自分のものではないけれど慣れ親しんだベッドに勝手に突っ伏すと、清潔なシーツに混じって恋人の香りを感じ取れるから、ユーリは大きく息を吸い込んだ。
「ありがたいんだ。ありがたいんだけど、みんなおれじゃなくてもっと特別な人にあげればいいのに」
「あなたが笑顔で受け取ってくださるから、みんな嬉しいんですよ。恋人や家族、友人知人にももちろん贈っているんでしょうが……。彼らにとってはあなたは特別なんでしょう」
 言われなくても分かっている。もはやお約束のようなものなのだ。言うなれば義理チョコのような。
 だからこそ、ユーリも笑顔で受け取れるのだけれど。



「何はともあれ、お疲れさまでした。風呂につかって、今日はもう休んでください」
 慣れた香りの安心感と一日の疲れから、落ちかけてしまった瞼だったが、労る言葉にはたと我に返った。
「あんたは?」
 突っ伏したまま首だけを横向けると、クローゼットを開ける姿が目に入る。既に今日の仕事を終えた魔王陛下とは異なり、護衛である彼はまだ仕事続行中らしく、公私混同に置かせてもらっているユーリの着替えの準備中だ。
「俺ですか? 俺ももう休みますよ」
「そうじゃなくて」
 コンラートは今日一日、ユーリの護衛をしながらモテモテの主を一歩後ろで見守っていた。彼宛にも少なくない申し出があったはずなのに、どういう魔法を使っているのか彼の手には魔王宛のチョコレート以外が乗ることはなかった。まるでバレンタインなど自分には関係ないとでも言うかのように。
「おれにチョコくれないわけ?」
 バレンタインとは好きな人に愛とともにチョコレートを贈る日だというのに。
「さっき、もうチョコレートは見たくないとおっしゃったじゃないですか」
「なに? 用意してないわけ??」
 去年も一昨年も贈りあったのに、と膨らんだ頬を見て、コンラートは微苦笑を浮かべてユーリへと向き合った。確かに今年は、ユーリ自身が忙しく、用意する暇がなかったのだけれど。
「用意したんですけどね、あなたのそんな姿を見たら別の物の方が良かったのではないかと思いまして」
「バレンタインって言えばチョコだろ。それに、あんたのは別腹。そもそも、恋人どうしのイベントなのに、あんたから貰えないとか、本末転倒じゃん」
 早く出せと言うかわりに、ユーリはベッドに横たわったままで唇を開いた。あーんと開く様は、恋人というよりは餌を待つ雛鳥のようではあったが。
 引き出しから取り出された小箱には、まるで宝物でも仕舞ってあるかのように美しいブルーのリボンがかけられていた。箱を手にしたコンラートがベッドの端に腰掛けると、その重みでベッドが軋む。
 しゅるりと引かれたリボンが解けて、蓋が開けば甘い香りがユーリの鼻を刺激する。今日たくさんかいだものと同じはずなのに、一番甘く感じるのはどうしてか。
 形の良い長い指が一口サイズのそれを1つつまみあげたそれがあまりに美味しそうに見えるから、ユーリはその指先ごと口に含んで、その甘さを楽しんだ。


(2012.02.14)