そのままの君でいて


 ページを捲る音しかしなかった部屋に、ノックの音が響く。コンラートは読みかけの本にしおりを挟み、テーブルへと置いた。
 まだ夜更けというには早いが、こんな時間に訪ねてくる相手は一人しかいない。
 いつでも入ってきていいのだと鍵はかけていないことは告げてあるにもかかわらず、こうやって毎度ノックをする律儀な性格はとても彼らしいと、自然とこぼれる笑みを隠さないまま。
「いらっしゃい」
 ドアを開た先に予想通りの姿を見つけることができ、コンラートは更に笑みを深めた。
 先ほど就寝のあいさつを告げて別れたばかりではあるけれど、朝まで待たずに会えたこと、そして何よりこうして彼が訪ねてきてくれたことをうれしく思う。
「コンラッド!」
 走ってきたらしく、少し息が切れている。上気した頬と、身長差により自然と見上げることになる姿を大変かわいらしく思いながら、身体をずらすことで中に入るように促した。
「どうしたんですか、陛下」
「陛下っていうなよ、名付け親」
 彼の部屋に居座り続ける婚約者に蹴り飛ばされたのか、それとも今ちまたで話題の毒女の最新刊の内容があまりにも恐ろしかったのか。
「そうでした、ユーリ。それで、どうしたんですか?」
 困って助けを求めにというよりは、そわそわと楽しそうな雰囲気で何かを伝えに来たのだと雰囲気から感じとれたので、さほど理由を重要に感じないまま一応訊ねてはみる。
 同時にソファをすすめると、彼は首を横に振っておもむろに寝間着の上着をめくってみせた。
「ユーリ?」
「これこれ、見てよ、これ」
 言われなくても、視線は彼の白い腹に釘付けだ。特におかしなところはない。いつも通りコンラートを誘惑して止まない滑らかでさわり心地の良さそうな肌がそこにあった。もう少し上に捲り上げてくれれば、胸元のかわいらしい色づきも見えるのだが。
「ちゃんと見てる?」
 捲り上げられた寝間着の胸元をきわどく隠す裾のあたりばかりを見ていることに気づかれたらしい。そこじゃないという訴えに、少しだけ視線を下げたコンラートは、はて、と首を傾げた。
「わかんない?」
「……と、いいますと?」
 見ただけで理解することを期待されているのは分かるのだが、いまいち彼の意図がわからない。
「腹筋だよ、腹筋! ちょっと割れてきたんだぜ」
 言われてみれば、そうかなという感じもする。逆に、言われなければ分からない程度のほんのささやかな変化だが、日々筋トレを欠かさない彼にとっては重要なものであったようだ。
 正直に言ってしまえば、コンラートは彼の過剰なトレーニングに反対だ。しなやかな彼の体は今のままでも大変美しいのだから、これ以上の筋肉などいらないのだが、残念なことに彼のあこがれる姿はオレンジ頭のお庭番だという。ないと分かっていても、もしあのような筋肉だるまになってしまったらと想像して悲しくなることをコンラートは止められない。だがしかし、ほんのわずか、ほぼゼロに等しい確率でそうなってしまったとして、彼である以上はそれはそれできっと美しいと思ってしまうのだろう。
「な、触ってみてよ」
 ほらほらと、差し出すように胸を反らしてくる。うれしいお誘いではあるのだが、本当に良いのだろうか? ベッドの中、それも明かりを消した暗闇でなければ、普段ならば触れさせてもらえない場所であることに、少しだけドキドキしながら手がのびる。
「では失礼して」
 一声かけてから、指の先でそっと触れてみた。指先が冷たかったのだろう、彼が小さく悲鳴を上げて身をよじる。それでも捲られた寝間着はそのまま、まだ触ることを許してくれているので、コンラートは今度は少し大胆に手のひらで彼の腹を撫でてみた。
 滅多にない機会だ。手のひらに吸い付くようななめらかな感触を楽しむ。寝間着のズボンのゴムのぎりぎりから、彼が許してくれているだろう持ち上がった上着の端まで、余すことなく丁寧に撫でていけば、少しだけ高い彼の体温と混ざった手のひらがほんのりと熱を持った。
「な?」
「そうですね。少し筋肉がついてきたようです。トレーニングの成果かな?」
 彼が喜ぶ言葉を口にすると、満面の笑顔が広がる。まぶしい、太陽のようなそれはコンラートが一番好きな表情だ。
 ようやく満足したらしい彼が持ち上げていた裾を離す。それは同時に、コンラートの至福のひとときの終わりを告げ、名残惜しく感じながらなめらかな肌から手を離した。
「やっぱり『継続は力なり』だよな。毎日欠かさず筋トレしたら筋肉がついてきたんだし、毎日牛乳飲んでたら身長も伸びるよな」
「……」
 それはどうだろうか。
 嘘を吐くのも躊躇われるので相づちも打たずに聞き役に徹する。幸いなことに今の呟きは、彼の独り言のようなものであったらしい。返事も得ぬまま自らの発言にうんうんとうなずいた彼がソファに座るので、コンラートも後に続いて隣に腰を下ろした。
 さっきよりも距離が近くなったせいか、風呂上がりのシャンプーの香りが鼻を擽り、コンラートを誘う。
 まだ夜とはいえ宵の口。せっかく部屋まで来てくれたのだ。このまま帰してしまうのはもったいない。
「ユー……」
 明日の執務に差し支えのない程度に、彼が許してくれるなら。
 あわよくばと少しだけの下心を胸に、声のトーンを落とす。甘く響くように意識して恋人の名を呼ぼうとしたコンラートであったのだが、
「あ、そうだ!」
当の恋人の元気な声にかき消されてしまった。
「どうしました?」
 いつでも生命力に満ちて美しく輝く黒い瞳が、いつも以上にきらきらとコンラートに向けられる。のばされた手が彼に近い方の大腿へと乗せられると、まさか、と思いながらも期待せずにはいられない。
 だが、残念ながらというべきか、やはりというべきか、彼の唇から発せられたのは予想外の言葉だった。
「コンラッドの腹筋見せて」
「はい?」
 彼が望むならば腹筋どころか、その下だって見せることはやぶさかではないのだが、この場合はコンラートが頭の中で描くシチュエーションとは異なった。
「腹筋ですか?」
 できることならば、見せるよりは見せてもらいたい。だが、キラキラした視線に抗いがたいものも感じる。
 葛藤を拒絶と勘違いしたらしい彼が「いいだろ、ちょっとぐらい」と頬を膨らませながら膝の上へと乗り上げてきた。
 ベルトにかけられた彼の手により、カチャカチャと音をたてながらバックルが外される。引き抜かれたベルトは役目を終えて、床の上に落とされた。
 自分が何をしているのか気づいていないのだろう。普段では見ることができない大胆さに、ややたじろがずにはいられない。
 引き抜いたシャツがまくりあげられると、彼は羨望と嫉妬の眼差しを向けて、ため息を吐いた。
「相変わらず硬いよな。いい筋肉」
 遠慮もなく、細い指先が腹に触れる。筋肉の割れ目に沿って、撫でられる感覚がむずがゆい。
 自身がそれほど敏感なたちだと感じたことはないコンラートだが、普段と違う感覚を味わうのは相手が彼だからだろうかと考えながら、息を詰める。
「あんたってさ、いつもおれの後ろ歩いてるだけに見えるのに、なんでこんな鍛えられてんの? アニシナさんの道具? それともおれが寝た後で秘密の修行でもしてんの?」
 一応は軍人だ。そして大切な主を守ることのできる名誉と責任のある役目にいる。常に鍛錬は欠かしていないのだが、どうやらそういった影の努力に気づいてもらえていなかったらしい。
「ひどいな、ユーリ」
「だって、ずるいんだよ、あんたばっかり。おれもこんな風になりたい」
 落胆をしないわけではなかったが、長くは続かなかった。飽きることなく六つに割れた腹筋の表面を撫で続ける手は、無自覚にコンラートを煽り続けていつまでも落ち込んでいさせてはくれない。
 「あわよくば」では済まなくなるまでそう時間はかからず、彼に気づかれないようにそっと腰へと腕を回した。
「あの、ユーリわかってます?」
「なにが?」
 ああ、やはり彼は理解していない。
 コンラートは自らに向けられる絶大な信頼に喜びと、同じだけのもどかしさを感じずにいられない。きょとんと首を傾げてくる表情をかわいらしく思いながらも、同時にため息を吐きたくなるのだ。
 逃がさぬようにと腕の中に囲った蝶は、自らがどれほど美味であるかを知らず、自らが捕まったことに気づかない。
「この体勢で、あんまり触られるとですね」
「え?」
 膝の上に乗っているので、目線はさほど変わらず近い距離にある。
「誘われてるのかなって思ってしまうんです」
「へ、あ、いや。そんなつもりは」
 もちろん、なかったことは知っている。だが、コンラートは誘われてしまったのだ。
「残念ながらユーリにそんなつもりはなくても、俺はもうその気です」
 ようやく逃げられぬ状況に陥っていたことに彼が気づくと同時にコンラートはキスをしかけ、思うままに恋人の唇を味わった。


          □ □ □


 疲れ果て、気を失うように眠りに落ちた寝顔は、先ほどまでの激情など嘘のようにすこやかだ。肌の感触を楽しみたくて脱がせた寝間着を着せぬまま、コンラートは代わりに肩までしっかりかけてやったブランケットの上から彼の腹をそっと撫でた。
 筋肉がついたと主張されたが、やはりコンラートには変化が分からない。だが彼が言うのだから、本当にそうなのだろう。
 日々の筋肉トレーニングの成果なのか、それとも。
「……」
 こうやって彼と身体を重ねるこの行為も彼の腹筋を鍛えるトレーニングになるかも知れない、などと馬鹿げたことを考え、小さく笑った。
 そんなことを告げたら怒るだろうか。真っ赤になった顔もきっと可愛らしいだろうなと思いながら、隣に潜り込み眼を閉じる。





 願わくば、彼がいつまでも今のままの彼でありますように。


(2012.05.08)