いい夫婦の日
いつもより機嫌の良い母が、いつもよりも少しだけ豪華な料理で食卓を彩っていた。
父が帰るまで待てとつまみ食いをとがめられて、うずうずとしながら帰宅を待つ、そんな幸せな夕食時。
食卓には珍しく花まで飾ってあって、今日が特別な日であることを主張していた。
だがしかし、おいしい料理と楽しい会話で迎えるはずだった夕食の時間は、一本の電話によって始まる前に終わりを迎えた。
受話器を持って「もしもし」と言ったきり黙り込み、恐らく帰宅が遅くなる旨を伝えてきたであろう父へ一言も返事を返さぬまま受話器を置いた母は、振り向くなりにっこりと笑て、息子たちに食事の許可を出した。
「いーい、ゆーちゃん。あなたが結婚してお嫁さんをもらったら、絶対に誕生日も結婚記念日も忘れちゃダメよ。そんな大切な日も覚えていられないような甲斐性なしじゃ、奥さんを幸せにはできないんですからね」
せっかくの豪華な食事は、延々と語られる結婚後の注意事項によって味も分からず、だが帰宅後にもっとひどい修羅場を迎えるであろう父を思えばこれ以上の刺激は憚られ、ただ黙々と頷きながら箸を動かすしかなかった。
秋めいてきた季節とはいえ締め切った室内に日差しが差し込めば暖かい。
カウチでうとうとしていたユーリは、目を覚ましてゆるく首を振った。
懐かしい夢を見た。
ずいぶん昔の夢だ。
僅かに寝乱れて頬にかかっていた髪を左手で払えば、指に嵌った細い銀の指輪が目に入って頭上に翳した。
奥さんに対する接し方や心構えについて、ことあるごとに言われてきたが、結局結婚した相手は男だった。
ならば旦那かと問われると、ユーリは自身が旦那であると主張をしたいから、やはり相手が男でも結婚相手は奥さんなのだろうか。
つらつらとつまらぬことを考えるのは、まだ寝ぼけているせいだ。
結婚記念日を忘れた父に、母はひどく怒っていた。
基本的には仲の良かった二人だが、その為に父はそれなりの努力をしていたように思う。
夢の続きを覚えている。
後日埋め合わせとして予約が大変だという有名なレストランに出かけていった。当然、息子たちは置いてきぼりだ。
やたらと時間がかかる母の支度中、父はこっそりと息子に耳打ちした。
「いいか、ゆーちゃん。カミさんには絶対服従だ。感謝の気持ちと愛を忘れるな。いくら仕事をしたって、家庭を守ってくれるカミさんの存在がないと家族はうまくいかないからな。なーに、難しいことじゃないさ。愛があれば簡単なことよ」
発言の内容はいささか情けないが、言い切る父は胸を張っていた。
尻にしかれていても幸せそうで、両親の不仲を疑ったことなどない。
少しはっきりしてきた頭で、今日が何日であるのかを考えてみた。
いい夫婦の日、なんてゴロ合わせはこの国では意味がないが、ユーリが生まれた家ではそれなりに重要とされていた日付は、もう一週間も前に過ぎていた。
すっかり忘れていたなと、頭上に翳していた手で額を覆った。
忙しかったのだ。言い訳ではなく、それは傍にいた伴侶もよく知っているはずだ。
もしかしてカレンダーを見れば気づいたかもしれないが、いつの間にかそんな習慣は消えていた。その責任は、あちらにある。
王配殿下でありながら、護衛、さらには魔王陛下のスケジュール管理まであらゆる身の回りのことをこなす男に、すべてを任せることに慣れてしまえば、もうあとは言いなりだ。
今日の食事から、数ヵ月後の会談まで、すべて任せておけばいい。王佐や宰相たちとの調整もお手の物だ。
そんな甘やかされた生活をしていたら、わざわざ今日の日付など気にする必要もないじゃないか。
だから、自分は悪くない。そもそも、向こうだって言い出さなかったのだから覚えていなかったのもお互い様ではないか……と考えて、あの男に限ってそれはないなと思い直した。
気づいていて、言わないのだ。
忙しいユーリに気遣って。
「起きてらしたんですか」
ノックもなく魔王の寝室に入ってこれるのは、たった一人しかいない。
「んー、さっきね。もう時間?」
「ええ、フォンロシュフォール卿がお待ちです。さあ、急いで準備してください」
僅かな休息の時間の終了を告げる声がした。
ぎりぎりまで休ませてくれようとしていたらしい男が、急ぐように主を急かす。
だが、当のユーリはのんびりしたもので、ぽかぽかとした陽光を浴びてまどろむように傍らに立った男を見上げた。
「忙しいのも落ち着いたじゃん」
「そうですね」
であった頃よりも、少し精悍さが増した。相変わらずかっこいいと思ってしまうのは、惚れた欲目だろうか。
最近、のんびりと顔を見る機会もなかったように思うためか、見上げる視線に遠慮がない。
見られる方も慣れたもので、動じる様子もないのだが。
「ちょっと、あっちに帰ろうかなって思うんだけど。ずいぶん帰ってないし」
両親はまだ健在だ。多少、年を取ったものの、いまだに仲がよい。
マのつく自由業についた息子の心配はあまりしていないようだが、それでもたまには顔を見せるように言われていた。
泣く子も黙る魔王様とはいえ、人の子だ。子供としての務めも果たさねばならない。
「それは、ミコさんもショーマも喜びますね」
言賜巫女に伝えておくと頷いたコンラートは笑顔を浮かべているが、うまく隠しているはずの不満に気づけたのは、きっと長い付き合いのせいだろう。
「すぐ戻ってくるよ。そしたら、一緒にゆっくりしよう」
大きな節くれだった左手の指には、同じ銀の指輪が光っていた。
いつまでもくすむことのない輝きを見て、口元を引き上げたユーリに返されるのは、今度こそ心からの笑顔だ。
いよいよ時間が押しているようで、伸びてきた腕がユーリの背へとまわり身体を引き起こされた。まだ少し眠たい顔を起こすように親指が目尻を撫でていくのを、夢見心地で受け入れる。
尻に敷かれることも絶対服従もできないが、愛を忘れないぐらいは簡単だ。
「愛してるよ」
両親に教わった夫婦円満の秘訣を思い出しながら告げれば、とろけそうな笑顔を返された。
(2012.11.28)