青空の先にあるもの


 その日は、雲一つない空がどこまでも広がる快晴だった。吹く風は柔らかく、僅かに揺れた枝の先で葉が擦れる音さえ心地いい。
 絶好のキャッチボール日和だなと主が言った。
 今日の空に浮かぶ太陽と同じぐらいまぶしい笑顔で誘われたら、断ることなどできるはずがない。コンラートはユーリに誘われるまま、共に裏庭を目指していた。
 裏庭といっても鬱蒼と木々が茂るような場所ではない。木々の合間にぽつんとできた空き地は、ちょっとした運動をするのに最適だ。
 以前はコンラートが個人的な鍛錬に使用していたのだが、最近では二人でキャッチボールをするための場所になっていた。
「ユーリ、走ると転びますよ」
「大丈夫だって。ほら、コンラッドも早く来いよ」
 どんどんと庭を進んでいく背中を追いかける。久しぶりのまとまった休みに浮かれているのかもしれない。羽でも生えているかのような軽やかな足取りは、後ろをついていくコンラートとの距離が開こうがお構いなしだ。
 あまり大きく離されないように気をつけながら、元気な後姿を視界に納めてコンラートは口許を綻ばせた。
 幸福とは、他愛のない日常の中にこそ存在するのかもしれない、などと柄にもないことさえ考えて。



「あれ?」
 目的地まであとわずかというところで、ユーリの足が急に止まった。
「どうかしましたか?」
「人がいるよ、コンラッド」
 ほら、と示された先を見る。黒い頭の向こうに人影を見つけて、コンラートもユーリの傍らに追いついたところで足を止めた。
 この場所を訪れるのは見回りの兵士ぐらいだ。その兵士たちも魔王陛下とその護衛の姿を見つけたら、邪魔をせぬように気を利かせてくれるので、ユーリがこの場所で誰かに会うのは初めてだろう。
「珍しいな」
「そうですね」
 兵士ではなさそうな相手の姿を確かめるために目を凝らしたコンラートは、息をのんだ。
「……っ」
 まさか、そんな。
「どうした、コンラッド。知り合い?」
「ーァ?」
 驚きと緊張が伝わったのか、不思議そうにユーリがコンラートを見上げたのと、佇む女性が二人に気づいたのは同時だった。
「そこに誰かいるの?」
 鈴の音のような声がした。
 ずいぶん長いこと聞いていない、だが昨日のことのように思い出せるそれはコンラートのよく知る声だった。
 ざわ、とひときわ大きな風が吹いた。
 風にさわられそうになる長い髪を抑えながら振り向いた女性が、にこやかに笑った。
「こんにちは」
 空に似た色を持つ髪も、陽の光を連想させる笑顔も、コンラートの記憶の中の姿のままだ。
「……ジュリア、なのか?」
「ええ。久しぶりね、コンラッド」
「え、ジュリアさんって、コンラッド?」
 ジュリアという名は、ユーリも知っている。
 言うつもりのなかった魂の出自を彼に知られてしまったのは、コンラートのミスだった。
「そんな馬鹿な……」
「ばかとは失礼ね。まるで幽霊にでも会ったみたいな顔をしてるわよ」
 目が見えないにもかかわらず、彼女は気配で様々なものをみる。
 足だってあるでしょう、と軽やかに笑いながら長いスカートを軽く持ちあげてる淑女らしからぬ仕草は、確かにコンラートの知る彼女のものだ。
 だが、彼女はもうずっと昔にー。
「あなたが驚いているということは、やっぱりここは私がいるべき場所ではないのね。少し、違う感じがしたの」
 「やっぱり」という言葉通り、彼女は驚いた様子もない。
 血盟城の裏庭に突如現れた女性は、コンラートの言葉通りに自らを白の魔女ースザナ・ジュリアだと名乗った。



 状況が飲み込めないコンラートとユーリを余所に、ジュリアははしゃいだ様子で二人へと近づいた。
 生まれつき視力を持たない彼女にとっては、気配で位置関係を把握することなどお手の物だ。
 並び立つ二人の前で足を止めた彼女は、戸惑いを隠せないユーリの手をとった。
「あなたは初めましてね」
 コンラートでさえ戸惑っているのだから、ユーリはなおさらのことだろう。
 助けを求めるようにちらりと見上げてくる視線にどう答えたものか。コンラートが答えを出すよりも先に、彼女はどんどんと動く。
「お名前を伺ってもいいかしら?」
「えっと、ユーリ……渋谷有利です。あの、ジュリアさん?」
「ええ。ジュリアよ。あなたはユーリというのね。いい名前だわ。よろしくね、ユーリ」
 白く細い指先が、ユーリの手を強く握る。親しみをこめた微笑は、かつて初対面のコンラートが受けたものと同じだ。
「どうして君がここに」
「説明が難しいわね。そうね……眞王陛下のいたずらのようなものかしら? 大丈夫よ、きっとすぐに元に戻るわ」
 三人の中、唯一動揺のみられないジュリアがきっぱりと言い切った。何の根拠もないそれが、おかしな説得力を持って二人の耳に響くのは、彼女の自信に満ちた表情のせいかもしれない。
「……なんてことだ」
 持ち上げた片手で顔を覆ったコンラートは、眞王、という名に手の中に隠した顔を僅かに歪めた。
 これが眞王陛下のいたずらだというのなら、なんて悪趣味なのだろう。
「そういうわけだから、せっかく会えたのだし、あなたたちの話を聞かせて」
「えっと」
「ね、いいでしょう?」
 いいのだろうかと、コンラートは考える。
 ユーリが知るスザナ・ジュリアという女性についての情報は少ない。
 ユーリが生まれるずっと前に亡くなっているということ。アーダルベルトの婚約者であったということ。コンラートやギーゼラと親しかったということ。そして、ユーリの魂の以前の持ち主であったということ……その程度だろうか。
 本来ならば出会うことのなかったはずの二人をこのまま一緒にしていてもいいのだろうか。だが、どちらを放っておくこともできない。
 珍しくいつまでも収まらぬ動揺のまま、コンラートの頭はめまぐるしく動く。
「話をするなら、お茶にしよう。すみませんが、へ……ユーリも、それでよろしいですか? キャッチボールは、また次の機会ということで」
 陛下、と呼びかけた言葉を慌てて飲み込んだ。本当に動揺している。
「うん、いいよ」
 そんなコンラートの心境を知ってか知らずか、ユーリは二つ返事で頷いた。だが、それに納得しなかったのはジュリアの方だ。
「キャッチボールってなあに?」
 いつまでも飽くことなくユーリの手を握っていたジュリアが、聞きなれぬ単語に反応をした。
「えっと、キャッチボールっていうのは、ボールを使ってする遊びで」
 女性から手を握られる経験はなかなかないユーリが、しどろもどろに説明を始めた。助けを求める気配を感じたコンラートが、やんわりとユーリから離させた彼女の手に硬球を握らせた。
「へえ、これを投げるのね」
 途端に初めて触れるボールへと興味を移した彼女が、両手を使って大きさや表面の皮の感触、縫い目の高さまで確認しはじめる。
「やってみせて。投げながらでも会話はできるでしょう?」
「できるけど……」
 こうと決めたら動かないのは、眞魔国の女性によくみられる傾向だ。彼女もまた、三大魔女と称される他の二人に勝るとも劣らない。
 ジュリアは二人の返事を待たずに手近な木の根元に腰を下ろすと、すっかり見守る体勢を作った。



 パシン、パシン、とボールがグラブに収まる小気味の良い音がする。
 その合間に交わされる会話は、主にコンラートとジュリアのものだ。
「じゃあ、ここはずっと先の未来なのね」
 すごいわ、と上がる声は純粋な喜びに満ちていた。
「そうだな。君が本来あるべき頃から二十年ぐらい後かな」
 受けたボールをユーリに返すために投げながら、コンラートがちらりと横目でジュリアの姿を確認する。
 魔族は人間よりも成長が遅い。だが、多少の誤差はあれど、ほぼ間違いはないだろう。
 記憶の中との唯一の違いが、それを証明していたが、あえて口には出さなかった。
 びゅんっと風をきって、投げたのと同じ早さでボールが戻ってくる。飛んでくる白球と、それを投げた少年を視界にとらえながら、コンラートはグラブを手にした左手を掲げてそれを受けた。
 動作の度に、十五メートルほど離れた先の少年の胸で、青い石が飛び跳ねた。
 以前はコンラートが身につけていたが、ユーリがこの世界にやってきてまもなく、お守りになればと譲り渡した。
 そして、それはもっと以前に、今は二人を見守る彼女が身につけていたものでもある。
「あなたがここで、こんな風に遊んでいるなんて、戦争は終わったのね」
 遊んでいるという言葉に、コンラートはつい口許を緩めた。これが他の者の言葉ならば、きっと悪意を持って聞こえただろうが、不思議と彼女の言葉にはそれがない。
「もうずい分と前に。完全に無くなったとはいいきれないが、それでも平和なものだよ」
 あれほど居心地が悪く嫌っていた血盟城で、剣ではなくボールを握って少年と遊ぶ前王の息子。彼女の驚きは二重の意味を持っていた。
 王が変わったことは伝えていないので、まだツェツィーリエが魔王をしていると思っているかもしれない。いくら勘の鋭い彼女といえどもよもや目の前にいるこの少年が今の魔王陛下だとは想像もしないだろう。
「不思議ね。二十年って、短いようでいてとても長いんだわ。あなたたち二人にしか会っていないのに、そう感じる。コンラッドも、ずいぶん雰囲気が変わったわ。大人っぽくなったっていうのかしら」
 二十年前の自分はどうだったのか。ユーリに誤解されかねない発言に、コンラートは苦笑を漏らした。
「ああ、そうかもしれない。でも、知り合った時にも既に大人だったはずだけどね」
「そうね。でも、私からしたら弟のようなものだわ。いつまでもやんちゃで、小さな子供のまま」
 本当に彼女には敵わない。
 笑いながら立てた膝に頬を乗せる彼女は、もしかしたら弟であるフォンウィンコット卿デルキアスンのことを思い描いているのかもしれない。
「小さな子供、か。あなたに掛かれば、ウィンコット家の跡取りも形無しだな」
「ふふっ」
 相手が旧知の間柄であればこそ、たとえイレギュラーな客とはいえ会話は弾むが、ユーリはどう捉えているのだろう。
 いっそこれが全くの他人ならば良かったのだが、ジュリアはユーリのー。
 ボールが届く先の彼に注意を向けてみる。何か考え込んでいる様子だが、コンラートにはいまいち彼の考えていることまではわからない。
 何か話題を変えるべきだろうかと考え始めた頃に、それまで規則的な軌道を描いていたボールが乱れた。
「あっ」
 ユーリにしては珍しい大きなコントロールミスだった。大きく軌道をそれたボールが、茂みの中へと転がって行く。
 すぐに追おうとしたコンラートを止めたのは、投げたユーリだった。
「ああ、いいよ。おれがとってくるから、コンラッドは待っててよ」
「ですが……」
「おれのミスだからさ。大丈夫だよ、そんな遠くに飛んでないはずだし、すぐに見つかる。女の人をこんなところに一人でおいていくものじゃないよ。夜の帝王の名が泣くだろ」
「ユーリ!」
 制止を聞かず、いや、止める言葉を振り切るようにユーリが茂みの中へと駆け込んで行った。
 すぐに黒い姿は視界から消え、ジュリアと茂みの間で立ちすくむことになったコンラートは、グラブを嵌めたままの手で額を押さえた。
 今すぐに追いかけたい衝動を堪えたのは、ユーリの行動の理由が分かってしまったからだ。
 どうして彼女がここにいるのかは分からない。だが、こんな奇跡はそうそう起きることはないだろう。それは、口にせずとも三人とも分かっていることだ。
 これは彼なりの気遣い。
「いい子ね」
 どうやら気づいたらしいジュリアの言葉に、コンラートは強く頷いた。
「ああ、すばらしい方だよ」
 もう二度と会うことの叶わぬはずだった友人たちが二人で語らう時間を与えてくれようとした彼の優しさに気づけばこそ、後を追いかけることはできなかった。
「本当に、すばらしい方なんだ」
 気配だけは追いかけて、少し離れた場所にその存在を確かめながら、コンラートは旧友の隣へと腰を下ろした。



 もっと長く共に過ごせると思っていた。
 時間が有限ではないことは知っていても、すぐ傍に終わりがあるとは想像もせずに。
 だからこそ、突然に彼女を失った時にの喪失感は大きかった。
「ジュリア……」
「なあに?」
 何度、彼女が生きていればと考えたのか分からないのに、どうしたことだろう。
 いざ現実になってみると、何を話せばいいのかわからず戸惑う自身を自覚し、コンラートは言葉を探して空を仰ぎ見た。
 親しい友人と同じ色をした空には、雲一つない。そして、眩しい太陽が強く輝いていた。その景色は、どうしてだかずっと昔に胸に忍ばせた球体を思い起こさせた。
「いや……」
 傍らに座る彼女の胸もとに、魔石の姿はなかった。肌身離すことのなかった石を手放した理由を、コンラートはよく知っていた。
 アルノルドへの出兵が決まった際に、彼女に挨拶に行った。国のために死ぬ覚悟をしていた。告げたわけではないのにコンラートの覚悟を察した彼女によって、無事を祈りながら首へとかけられたそれは、今は新しい持ち主の胸もとで輝いている。
 彼女は自分の運命を知っていたのだろうか。だから、最後に自身に魔石を託したのだろうか。
 あの時のコンラートは、彼女が先に逝くなんて考えもしなかった。
 今の彼女は、この世界に自分自身が存在しないことを知っているのか。
「君は……」
 記憶を辿り寄せてみる。
 かつて言賜巫女は彼女が眞王と会話し、すべてを知った上で運命を受け入れたのだと言った。
 そう聞かされたのは彼女が亡くなった後のこと。その行動は彼女らしいものであったとしても、彼女自身から聞いた言葉ではない以上、心のどこかで疑う気持ちがなかったわけではない。
 再び再会した彼女はコンラートの手のひらの中、以前の面影などどこにもなかった。
 瓶の中に納められた真っ白な球体は、コンラートの手の中できらきらと輝いていた。
 まるで、コンラートの後悔も憤りも、過去も、何もかも知らないとでもいうかのように。
 大切な魂を、どうして彼女は自分に託したのか、ずっと知りたかった。
 あの日、魂を手にして憤った。眞王陛下も、言賜巫女も、守りたかったはずの国も、魂を託した友人さえも恨んだ。大切な人を守ることもできず、たくさんの部下も失い、生きて帰ってしまったことを恥じた。どうして死ぬのが自分ではなかったのかさえ考えた。
 置いていかれたような気持ちになっていたのかもしれない。
「俺は、君に……」
 今ならば、聞くことができる。
 隣には、もう二度と会えないと思っていた友人がいた。二十年ぶりという時間を感じさせない。体温さえ感じられそうな距離がしっくりと落ち着く。
「……」
 聞きたい。ずっとそう願ってきたはずなのに、開こうとした唇はうまく言葉を紡ぐことができなかった。
「……ねえ、コンラッド」
 遠くで鳥の鳴く声がした。
 空から視線を移した先には、見上げていた空と同じ明るい青。きらきらと陽光を受けて輝く彼女の顔に浮かぶのは、微笑み。
 弾かれたように目を見開くコンラートの頬へと、細い指先が触れた。輪郭をなぞるのは、たくさんの人々を癒してきたものだ。
「あなたには、もう分かっているはずよ」
 低い体温とは裏腹の温かさに包まれながら、コンラートは彼女の言葉の意味を悟り、目を伏せた。
 きっと、彼女は自らの運命を知っている。
「アーダルベルトには……」
 会っていかないかと、続けるはずの言葉は最後まで続かずに途切れて消えた。あの男の居場所は知らないが、きっと眞魔国内にはいないはずだ。
「会いたいけど、そんな時間はなさそうね」
 彼女が首を左右へと振ったのがまぶた越しに気配で分かった。
「二十年後のあの人なら、きっともっと素敵になってるんでしょうね。でもいいの。今のあの人も素敵だから」
 笑う彼女の声は軽い。
「ありがとう、コンラッド」
 どうして彼女が礼を言うのか。
「あの人は元気にしてるでしょう? 強い人だもの」
「そうだな……」
 この国を去った男は、今も飄々と人間の国を回っているはずだ。悲しみも、苦しみも、全て背負いながら自らの手で進むべき道を決めた彼女の婚約者は、コンラートなどよりよほど強い。
 その強さを知っていたからこそ、彼女は魔石をコンラートへと託したのかもしれない。
「礼を言うのは俺の方だよ、ジュリア」
 コンラートの言葉に彼女は満足そうに微笑んで、触れていた指を離した。
 消えていく温もりを追いかけて視線を上げたコンラートが見たのは、まっすぐに駆け出す背中だった。
「お別れの前に一つだけ教えてあげるわ、コンラッド!」
 一度だけ振り向いた彼女が、声を張り上げた。
「私は見てみたかったの。私の大好きな人たちの幸せな未来を。それが、私が眞王陛下に願った二つ目のお願いよ」
 この出会いは偶然でも、いたずらでもないと彼女は言った。
 魂をコンラートへと預けることを願った彼女の、伝えられることのなかった二つ目の願い。
 いつだって彼女はまっすぐに未来を見据えて、コンラートの先を行く。
 惜しみなく降り注ぐ光の中の姿が目指す先には、藪の中からボールを手に戻ってきた少年の姿があった。そして彼女は、自らの中にある崇高で純粋な願いを受け継いだ新たな魔王の体を抱きしめた。
 木々がざわめいた。
 爽やかな風が吹き抜ける。
 眩しいほどの光の中、彼女の身体は蜃気楼のようにゆっくりと熔けて消えた。



「消えちゃった」
 立ち上がったコンラートが近づくと、ユーリは呆けたようにぽつりと呟いた。
「ええ、消えてしまいましたね」
 まるで白昼夢。二人揃って同じ夢を見ていたかのようだ。
「会話、できた?」
「ええ。ありがとうございます」
 良かったと一度笑った彼は、すぐにその笑顔を引っ込めた。
「良かったのかな?」
 風が吹き抜けた後には、もうなにも残っていない。どこかぼんやりと余韻に浸りながら、ユーリが零した呟きを聞きとめてコンラートは首を傾げた。
「なにがです?」
「ジュリアさんのこと。だって彼女はこの後……」
 先ほどまで目の前に存在し、喋り、笑っていた女性は、もうこの世のどこにも存在しない。過去は変えられないし、変えてはいけないのだ。
 彼女の魂は形を変えて、いまここにあるのだから。
 彼女もそれを望んでなどいない。
 分かっているはずなのに、それでも彼女の死に対して心を痛めずにいられない彼の優しさに、コンラートは何度救われたことか。
「過去は、変えられません。それは今を否定することになる。だから、あなたが気に病むことはないんです」
「うん……」
 素直に頷きながら、声を落とす彼が何を想うのか、コンラートには分からなかった。出来ることは、ただ黙ったまま、いつもより強い力で彼の手を握ることだけだ。
「コンラッドは……」
「はい」
「コンラッドは、彼女のことが好きだった?」
 問いに思い出す。もうずいぶんと昔に別れた友人を。
 彼女を思い起こす時に、俯くのではなく、空を見上げるようになったのはいつからだろうか。
 いつもそうしていたように空を見上げたコンラートは、やがて視線を隣に立つ少年へと移して、緩く首を振った。
「好きでした」
 彼女のことをとても好きだった。だが、それはユーリが考えているようなものとは違う。
「俺にとっての彼女は、気の置けない友人であり、母であり、姉だったんです」
 今でも大切だ。それは一生、変わることがないだろう。ともに過ごせた時間は決して長くないが、たくさんのことを教えられた。
 コンラートの胸の中の大切な場所に、彼女の思い出は仕舞われている。
「ユーリが考えているような関係ではないですよ」
 見上げてくる黒い瞳の中にある揺れる感情を読み取って、笑みを零す。
 わざわざ否定をすることもないだろうと、放っておいたせいもあるが、当時から誤解をしていた者も多い。
「出会った時から、彼女はアーダルベルトの婚約者でした。政略結婚だと考える者も多かったですが、決してそんなことはなかったんですよ。よくジュリアに惚気られました」
 他人がどう言おうが自分たちには関係ないと考えるコンラートも、ジュリアも、アーダルベルトも、似た者同士だったのかもしれない。
 大切なことは、自分たちが知っていればいいのだ。
「俺は彼女とアーダルベルトの結婚を、心から祝福していました」
 嘘でも虚勢でもない。幸せそうに寄り添う二人の友人の姿は、いつだって心を温かくした。
 好きだった。恋かもしれないと自身の気持ちを疑ったことがなかったわけではない。だが、気の迷いだったのだと今なら確信を持って言える。
「でも、あなたは違う」
「おれ?」
「そう、ユーリ」
 突然、自分の名が挙がったことに驚き、瞬きを繰り返す少年の頬へと、コンラートはゆっくり触れた。まろやかなラインに沿って撫でる手付きは、想いの分だけ優しくなる。
「あなたがもし他の誰かを選んだとしても、俺はそれを祝福できない。それどころか、きっとあなたを抱えて逃げることを選ぶでしょう」
「裸足で?」
「そう。他の何を捨てることになったとしても、あなただけを連れて」
 そんな未来など、来ないに越したことはないのだが。冗談でもなんでもなかった。
「あなたと、ジュリアは違う」
 確かにその魂の出自は、出会うきっかけになった。
 だが、こんな風に愛するようになった理由は、彼が生まれ、育つ間に身につけてきた何かにどうしようもなく惹かれたからだ。
「そっか」
 そっか、ともう一度繰り返したユーリはそれきり黙りこんだ。
 二人の間に、心地良い風が吹き抜ける。
 風に揺れる艶やかな髪を、コンラートは飽くことなく見つめ続けた。
「おれ、思ったんだ」
「ユーリ?」
「前世のことなんて考え出したら終わりだと思ってた。でも、違うかなって」
 不器用に言葉を探す彼を急かすことなく待つのは、彼の言葉や、そこにある想いのすべてを常に受け止めたいと願うから。
「おれは自分の前世を知っていて、そのことであんなに素敵な人を身近に感じるんだ。それって、すごいことだと思わない?」
「ええ、すばらしい」
 溢れる感情のままに笑みを零すコンラートにつられるように、ユーリも笑った。
「ありがと」
「いいや、お礼を言いたいのは俺の方だ、ユーリ」
 こうして今、心穏やかでいられるのも、幸福な未来を思い描けるのも、すべては彼と、彼女のおかげだから。
「本当にあなたはすばらしい」
 礼の代わりに、コンラートはもう一度彼を褒め、そして腕の中に強く抱きしめた。





 消えてしまった友人を想う。
 彼女の望んだ未来が、すぐそこまで近づいていた。
 誰もが笑い会える世界。
 それを叶えてくれる少年はコンラートの腕の中。





Illustration:冬青様


(2013.05.08)