無題
夜というには遅く、けれど朝と呼ぶには早い時刻、コンラートは人目を憚るように自室へとたどり着いた。
部屋の明かりを灯すのも億劫なほど重い身体から、解いた旅装を床に放る。身体は軽くなったはずなのに心はどこまでも重く、それを表すように落とす息も深く沈んだものとなった。
城に戻るのは一週間ぶりだ。一刻も早い帰城を願っていたはずなのに、城が近づくにつれてだんだんと足取りは重く、憂鬱なものに変わっていった。
国境近くの村が賊に襲われたとの報告を受けたのは十日ほど前だった。幸いにも死者はでなかったが、いくつかの家が焼かれて怪我人も出た。この襲撃が一度で終わるはずはないだろうとすみやかに派兵が決まり、コンラートはその指揮を自ら買って出た。
「気をつけて。それからーー」
見送る時の、馬上のコンラートを見上げた瞳の物言いたげな視線を思い出せば、また深いため息が漏れる。
賊は何人かを捕らえることに成功したが、そのほとんどはその場で切り捨てられた。国境を跨いでやってきた兵士達の成れの果てだ。法術を使う者のも多く、生きて捕らえるのは難しい。逃がせば、再び村は襲われる。
こういった任務は初めてではない。先代の頃より、大なり小なり繰り返されてきた問題だ。それは今の王が即位した後も変わることはない。二つの世界を行き来する魔王陛下がこちらの世界にいる際に起きたトラブルが初めてだというだけで。
村を、そして率いる部下を守る意味でも殺すという手段を選び命じたのはコンラートであり、それが最善だと今でも思っているが、確実に悲しみに揺れるだろう黒い瞳を思い出せば自然と心は暗く沈む。
この国の王の、平和を望む気持ちはとてもすばらしいものだと思う。彼ならば、成し遂げるだろうと信じている。
けれど、それとコンラートが剣を振るうことはまた別の話だ。どれだけ彼が望まざることであろうとも、必要とあらば剣を振るう。彼が目指す国を作るための礎となるために。
彼は正しいのだ。正しくて、まっすぐで、強い。
だが、強くまっすぐなだけでは、どうにもならないこともある。そういう部分を担うのが自分でありたいと、自ら買って出た役目であったはずなのに。
壁に立てかけた剣をちらりと見やれば、表情が厳しいものに変わる。
明日、何と報告をしようか。村は守られた、と。その一言で納得させるには、血が流れすぎた。
眠る気になれずに熱い湯を浴びようかと思案していると、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「……」
共に戻った部下だろうか。それともーー。
浮かんだ顔は眠っているはずの人で、違うはずなのに返事ができないのは予感があったからだ。嫌な予感ほど、こういう時に外れてはくれない。
「入るよ」
コンラートがいると分かっているように、返事を待たずにドアが開いた。顔を覗かせたのは、いま一番会いたくない人だった。
「おかえり、コンラッド」
「……」
こんな時間に、どうして起きているのか。一人で部屋を出てふらふらするなんて。言うべき言葉は頭に浮かぶのに、どれも口から出てこないのは彼の顔が強張っていたからだった。
ぎこちない笑顔。
部屋が暗いことなど、関係ない。見なくたって彼の表情が分かってしまうことが、この時ばかりは恨めしい。
「帰って来たなら帰って来たって言いに来いよ」
「もう眠ってらっしゃると思ったので」
「何時でもいいからって言っておいただろ」
『気をつけて。それから、戻ってきたら一番に会いに来て欲しい。何時でもいいから』
見送りと共に念を押した彼に、コンラートができたのは曖昧な反応だけだったのだが、彼の中では約束になっていたようだ。
一歩ずつ近づく距離に、だんだんと身体が強張っていく。
「……汚れますよ。戻ってきたばかりで着替えさえしていない」
表情がわかるほどに近づいた距離の中で伸ばされた手から逃れた理由を、コンラートは咄嗟にそう繕った。
血で汚れているから。
もちろん、あちらを立つ前に着替えた服だ。返り血などついていない。けれどコンラートの記憶は鮮明に赤い色と鉄のような匂いを覚えている。
いつもの笑顔はどこにもない。思いつめた表情は、コンラートの手に染み付いてしまった洗い流せない赤に気づいているからだろうか。
だから今夜は会いたくなかったのに。コンラートはそっと奥歯を噛み締めた。
剣を振るうのは必要なことだ。そうしなければ、もっと多くの血が流れた。誰かがしなければならないことならば、自分がするべきだと思った。自分は彼の剣なのだから。
けれど。
彼はきっと悲しむのだ。自らのために平気で他人の血を流すような賊でさえも、命を奪ってしまったことを悔いるだろう。もっと他に方法はなかったかと考えるのが彼だ。
そして命を奪う手段を選んだ自分が彼に失望されることがこんなにもおそろしい。綺麗な道を歩んできたわけでもない、これまで通りの行いをしただけだというのに馬鹿げていると自覚しながら。
何と告げようか。
言葉を探さなければならないのに、鈍る思考が考えることを放棄する。どのような言葉を重ねたところで、コンラートがしてきた事実は何も変わらない。
「コンラッド!」
強い口調で呼びかけられて、はっと目を瞠ったコンラートは、すぐにその表情を困惑に変えた。
「なんて顔してるんだよ」
コンラートの腕を強く掴む手があった。そこから辿った先には、何よりも大切で、一番に優先すべきひとがいる。
悲しみや憤り、複雑な感情を絡めた二つの瞳が、コンラートを見上げていた。
この瞳と向き合うのが恐ろしくて、会いに行けなかったはずなのに。彼の方から現れたのは、明日になればもう少しうまく取り繕えるコンラートを見透かしていたのかもしれない。
「……」
すみません。
開いた唇は、言葉をつむぐ前に閉じた。何に対する謝罪をしようというのか。
「怪我は、ないな?」
「……はい」
「なら、いい」
なにが、いいのだろうか。
飲み込めぬコンラートへ向けられたユーリの表情が、柔らかいものに変わった。
「ありがとう。お疲れさん。それが言いたくて、待ってたんだよ」
「ユーリ?」
「馬鹿だな、コンラッド」
腕を掴んでいた手が離れ、今度はコンラートの肩へと触れた。
成すがままになっていたコンラートが、抱きしめられていると気づいたのは鉄ではない匂いが鼻をくすぐってからだった。
石鹸に混じってお日様のやわらかな香りがした。抱き返すことができないコンラートを気にすることなく、肩からその先へと伸びた手はコンラートの頭を包み込む。
「そんな顔すんなよ」
そんな顔とはどんな顔か。掠れた声で尋ねるコンラートへと「泣きそうな顔だよ」と答える彼の方が、よっぽど泣きそうなくせに。
「あんたは忘れているかもしれないけど、あんたを送り出したのはおれだよ、コンラッド」
おれは王様だから。
そう彼はコンラートの耳元で告げた。
「だから、おれはにはそれを全部受け止める義務と責任があるんだ」
国境の村で何があったのか分からないほど、彼は愚かな王ではない。むしろ、敏い彼はコンラートが不在の一週間、ずっと流れる血の量を考えていただろう。
今回は規模が小さいが、今後もそうだとは限らない。こちらにそのつもりがなくたって、攻め入られてしまえば応戦するしかない。そうした選択を迫られるのが王という存在だ。
武器を持つ敵から民を守るということは、相手を傷つけろという命令でもあるということも。そんな命令をさせたくなくてコンラートが自ら志願したことも。
十分すぎるほどに理解した上で、この言葉をコンラートに告げるためにずっと待っていてくれたのだろう。
「おかえり、コンラッド」
一番最初にコンラートへと告げた言葉を、彼はコンラートの耳元でもう一度繰り返した。
恐る恐る抱きしめた身体は、腕におさまってしまうほどに細いのに、こんなにもあたたかい。
「ただいま戻りました、ユーリ」
先ほど返せなかった言葉を紡ぎながらコンラートは目を伏せると、彼に仕えることができる今に感謝した。
そして、改めて思うのだ。
彼に、己のすべてを捧げよう、と。
(2016.05.07)