魔王次男
この部屋に入ってきたものは、基本的に口を閉ざす。
掃除をする者も、食事を運ぶ者も、皆同じ。まるで人形のように表情を消し、目を伏せ、そそくさと仕事をこなして去っていく。
ユーリが何か声をかけたところで、会話を交わすどころか視線さえ合わせようとしない。ここへと連れてこられてからの数日間で嫌というほど理解したユーリは、それ以降自ら言葉を発することを止めた。
忌み嫌われることと、存在しないものとして扱われることと、どちらがより辛いのだろうか。
考えたところで答えは出ず。だから、目を閉じる。
与えられた部屋の、これまで泊まったどの宿よりも上質なベッドの上へと身体を横たえて。厚いガラス窓の向こう、遠く聞こえる名も知らぬ鳥の鳴き声に耳を傾け。次に目を開いた時、これが悪夢であることを願いながら。
侍女たちは四度。けれど、その男は毎日決まった時間に三度扉を叩いた。
自らが君臨する城の中、閉じこめた虜囚に対してのそれにどのような意味があるのか。考えることを拒み、ユーリは寝返りを打った。いくら待ったところで、返事などしてやるものか。どうせ、返事がなくても勝手に入ってくるのだ。
きっちり十を数えてから、扉が開いた。
羽織ったマントの衣擦れの音が、ゆっくりと近づいてくる。背を向けたままのユーリには姿を見ることはできないが、振り向くまでもなかった。
「また、食事をとらなかったのか」
「……」
かつて共に旅をした仲間であり、ユーリをここに閉じ込めた忌むべき魔王であり、この狭い世界で唯一ユーリを認識し声をかけてくる男。
「きちんと食事はするんだ」
数時間前からそこに置かれたままほとんど手のつけられていない食事を見て、ため息をつく気配を感じた。
死にたいわけではないから、まったく手をつけないわけではない。けれど、この過剰な程に豪奢な部屋に閉じこめられた理由も、これまで食べたこともないような手の込んだ食事を与えられる理由も見つからないから、全てを受け入れられないだけで。
「食べたいものがあるなら、作らせる」
わずかにベッドが軋んだ。隣に腰を下ろした男の視線を背後に感じる。
手を伸ばせば届く距離は初めてではないのに、息苦しいほどの緊張を感じてユーリは身体を強張らせた。
「食べ物以外でも、欲しいものがあるならば言うといい」
眠っていないことなどとうに知られているのに、振り向くことも返事も強要しない、淡々とした声が告げる。
だから、ユーリはただ何もない壁を見つめ、決して振り向かなかった。
振り向いたところでそこにいるのは、ユーリが知る人物ではない『魔王』だ。
飾りの多い豪華な服を当たり前のように身に纏う。冷たい目で、決して笑わず。城の者達に慕われながらも恐れられる。
それは、ユーリが求める現実ではない。
「欲しいものがあるならば、なんでも用意させる」
「……き」
今ここにいる魔王が本来の彼だというのならば、共に旅したあの時間は何だったのだろうか。
からかわれていたのかと怒るには、共に過ごした記憶が優しすぎた。怒るということは、これまでが全て嘘だったのかと否定することになるようで。
「なんだ?」
欲しいもの。
目を閉じ、最初に思い浮かんだのは懐かしい記憶。隣にあった笑顔。まるで空気のように、そこに在ることが当たり前で、失うなんて考えもしなかった。
嘘つき。
本当に欲しいものなど、与えられるわけがない。
「なんでもない。出て行ってくれ」
なんとか絞り出した声は情けないぐらい弱く響いた。その後におとずれた沈黙は重苦しく、けれどそれ以上の会話を続けることが出来ずに口を閉じる。
「わかった」
感情をうかがわせぬ声が短く響き、マントの衣擦れの音と共に足音が遠ざかっていく。
出ていけと、ユーリが望むことができるのは、それだけだ。
触れられる距離にいながらその手がユーリへと触れることはなかったように、本当の願いは決して叶うことはない。あの笑顔が、戻ることはない。
真実を知ってしまったあの日、旅は終わりを告げた。
背後で、扉が閉まる音がした。
自ら口にし望んだはずのその音は、ユーリの耳に悲しく響く。
「コンラッド」
この国の王ではない。かつての旅の仲間の名を呼び、もう戻ることのない時間を想い、ユーリは自らを抱きしめるように身体を丸めた。
(2010.06.21)