100年、それは長いのか短いのか。
「これくださーい」
「はい、まいど」
売り物の商品を綺麗に拭いては店先に並べると言う毎朝の作業を繰り返していた果物屋の店主は、軒下から聞こえて来た客人の声に顔を上げた。
声の主は、にこにこと愛想よく店主に笑い掛ける、林檎を手に持つ年若い青年だった。
健康的に焼かれた肌は皇かで一点の染みもなく、腰まで靡く長い髪は細く美しい。笑顔をのせたその貌は一度見ただけで忘れられなくなりそうなほどに整っている。例え絶世の美貌を謳われる当代魔王の君を仰ぐ此処眞魔国の王都住民であろうと、老若男女、振り返らずにはいられないだろうと思わせるその美麗に―――だが、見覚えがあった。
否、見覚えなどではなく、間違える筈もないのだ。彼の瞳と髪を飾る色。闇よりも暗い完全なる漆黒は、この世界に於いて、尊き王とその相棒の賢者以外は持ち得ない稀有なのだから。
「へ…へい…」
「しー。おれ、今デート中なの。今日はへいなんとかじゃなくて、ミツエモンって呼んでね、おっちゃん」
目を瞠る店主に、青年は悪びれもなく慣れた仕草で、片目を瞑ってみせた。口元に人差し指を当て、俗に言う内緒、のポーズを作る。
「ほら、だから髪の色くらい変えましょうと言ったんですよ。あなたは良くても、国民が惑います」
耳触りの良い重低音の声と共に、黒髪の青年より頭一つ分高い影が、彼の後ろから現れた。
青年とは別の意味で、男でも見蕩れそうな壮年の美丈夫である。濃茶の髪に、榛色の銀の星を散らしたような虹彩を持った瞳。店主は、その茶髪の男の顔も知っていた。
「変えた所でどの道目立つじゃん。ならもう最初からバラしてた方が気が楽。王都はデートに来過ぎててもう流石にそろそろ皆慣れてくれてるし、今じゃ、結構得心入った、つってノッてくれるひとたちも多いんだぜ? なー、おっちゃん。あ、こっちはカクノシンって呼んで」
「…なるほど、デートですか…」
「そうそう、休日デート。染めるのも落とすのも時間掛かんだもん。その間分2人っきりになる時間が減るつーのに」
軽口の中に混じった青年の本音に、男は秀麗に整った眉根を顰めた。
「…それを最初に仰って下さってれば」
「察しろ。付き合い長いんだから。おれの健気な乙女心を」
「あなた別に乙女じゃないじゃないですか」
「うわー、あんた、本当年取ってから細かくなったな。やだやだ」
口をへの字に曲げて、首を振りながら青年が財布を取り出す。そして、林檎の代金としては多過ぎる銀貨を店主のてのひらの上に落とし、口止め料込みで、と楽しそうに笑った。
実際に楽しくて仕方がないのだろう。店主は思う。
この国の優秀過ぎる王は多忙を極める。100年を越す平和な御世。最早、彼の代わりは誰にも出来ないだろうと世界中が考えているほどの名高き賢王。冗談めかしているが、この公然の恋人とのデートも、恐らく執務の合間を縫った、暫く振りの逢瀬なのだ。
そんな彼らを、邪魔するのは無粋と言うもの。この王都には、彼らの仲を裂こうなどと考える国民はひとりたりといない。
「あはは…、まいどありがとうございます。それでは、ミツエモン様、カクノシン様。よい休日を」
「あはは! おっちゃんノリいいな! また来るよ、ありがと!」
「失礼します」
じゃれ合いながら去って行く彼らの後姿を見送り、店主は作業に戻る。
青年らが来る前の工程を繰り替えすこと数度。
「ねえねえおじさん! さっきの魔王陛下よね! ウェラー閣下とデート中の!」
「すっごい綺麗だったーっ!!!」
「悔しいくらいお似合いなんだよね、ああっ、写真撮っておけば良かったー!」
「駄目だよ! 2人の邪魔するなんて、非国民の所業なんだから!」
その後。
果物屋の主人は、彼らの姿が見えなくなってからそう間を置かずして、店先いっぱいに広がった人垣に、苦笑しながら対応する羽目になったのである。
「でもさあ、昔からの習慣だけど、つくづく早まったかなあって思うわけ」
「?」
「あんたさあ、初めは硬派でストイックで優しい格さんだと思ってたけど、違うよな。助さんだよ」
うむうむとひとり首肯しつつ、林檎をかじりかじり、黒髪の青年が宣う。
恋人の長い髪をくるくると指先で玩んでいた茶髪の男は、言葉の意味を図りかねたのか首を傾げた。
「スケサン…ヨザがやってる役ですか?」
「そうそう、スケサブロウ。明るい二枚目でフェミニストな剣術の達人。あんたじゃん。格さんは拳だしな」
「へえ…」
敢えて比べてみるならそうかもしれない。青年には劣るもののそれでも国中で上位を独占する美形一族に生まれ、周りも美形に囲まれて育った彼にとって、自分が二枚目であるとは到底思えない分、そこだけは引っ掛かるものの、それ以外の項目ならば、前者よりも後者の方が妥当であろう。
それに、恋人に二枚目だと思われているのは、素直に嬉しい。剣術の達人だと認めて貰えていることも、だ。彼にとって、他の誰の評価もいらない。欲しいのは、目の前の主のものだけだからだ。
「んで女にモテる気障な女たらし」
しかし、そんな男の僅かに誇らしげな相槌は、恋人のこの発言で、後悔させられることになった。
「…その下り、あなたも大概だと思いますけど。女たらしどころか、男たらしでもあるでしょう。先ほどの店主も見惚れてましたよ」
「ふうん? まあ、もう子供でもないしなあ。でも安心していーよ? 積極的にたらすのはあんただけだから」
「その言葉、そっくりそのまま返させて頂きます」
ああ言えば何とやら。自分の気分を下げたり、上げたり、自由自在なことだと今更ながらに心中舌を巻く。打てば響くように返って来る応酬に、だが男は柔らかく口元を弛めた。
すぐに頬を赤らめて、ぱたぱたと手足を動かして首を振って、泣きそうな顔で否定したり取り繕ったり。男の言葉に、付き合い始めの頃のようには、幼かった頃のようには、もう青年は反応しない。それが嬉しくもあり、少し寂しくもあり―――とても愛しいと思う。
「そう? じゃあ、たらしてみてよ」
「…そうですね…」
くすくすと、喉奥で笑って、歩く速度を弛めた青年が、男に手を伸ばす。
指先が絡む。青年の手は少し温かく、男の手は少し冷たい。触れ合って、同じ温度になって行くのを楽しむかのように、ゆっくりと重ねた。
「では取り敢えず、可愛くないことを言う口には蓋をしましょうか」
返事も聞かずに、男が口唇を合わせる。思わず物足りないと、腕を引いてしまいそうになるほどに、軽い接吻け。
ここが往来であることを忘れて強請ってしまいそうだ。否、何処であろうと、結局、自分はこの男を前にすると彼しか見えなくなるのだ、昔から。それだけは嫌になるくらいずっと変わらない。そう一人ごちて、青年は薄く笑みを浮かべた。
「駄目だな、これは」
「はい?」
「…して欲しいから、可愛くないこと、わざと言っちゃうだろ、これだと」
「……ああ、もう…あなたはホントに…」
男が降参、と両手を上げる。青年はそれに、声を上げて笑って返したのだった。
それなら、ねえ。
可愛くないことを言う口には蓋を。
可愛いことを言う口にはご褒美を。
さあもっと、2人きりで溶け合える何処かへ、急ごうか。
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