幸せ過ぎて怖い話 - blind/遠野さま
小さいけれど庭付きで、古いアパートメントに囲まれているけれど一戸建て。リビングが少しだけ広いその家に、おれと彼は住んでいる。
すぐ傍の通りで排気ガスを放出する車の音がバックミュージックで、しかしそれは聞き慣れたおれの昼寝を邪魔する程でも無く。起こすならそれよりももっと違う音。例えば…おれを起こさないようにと出来るだけ静かに歩く、足音。その優しさに、自然と頬が緩んで瞼を持ち上げた。
「また起こしてしまいましたか」
残念そうに下げる眉尻には左右の何処にも傷痕は無い。
おれは彼の頭をふわりと撫でて、立ち上がる。時計に目をやると十七時を回っていた。
「今から飯作るよ、何が良い?」
数年使っている割にやたらと綺麗な鞄を下ろした子供は、考える振りをしてからおれの好きな食べ物を挙げた。
どうしてか、教えてもいないのに彼はおれの好きなものに詳しくて、嫌いなものも直ぐに察する。物心付いた頃からだ。
「ばーか、先週も食べたただろ」
そうでしたっけ?ととぼけながら、にこにこと笑う彼は視線を一瞬も外してはこない。
「楽しい事でもあったのか?」
「毎日楽しいですよ。だって家に帰ればユーリがいるんですから」
まったく、そんな台詞ばかり上達して。…そう呆れた息を抜きそうになった時、背中に温もりが灯る。彼の額だ、子供体温のそれはやたらと熱い。
「それだけで、幸せ過ぎて怖いくらいです」
一瞬、こめかみに痺れるようなような痛みを感じた。だがすぐに今度は回されたそれに意識を奪われる。腰に抱きついて来るその腕は、決して逞しくは無いのに。
「どうしたんだよ、甘えたりなんかして」
鍋を火をかけながら、おたまで「危ないぞ」と指摘した。だが、彼は一向に離れてはくれないらしい。
親離れしないなぁと、苦笑する。
「ユーリはいきなり何処かに行ってしまいそうだから、傍に居る時に甘えておかないといけないんです」
「お前を置いてどっか行くわけないだろ」
そう言っても腕の力は余計に込められるばかりで。疑われている事を苦く感じながら、仕方ないかとも思う。
今迄、人に信じられる行いをしてきたとは決して言えない。寧ろ逆だと言い切れる。騙して騙して騙して騙して、今生きてるいるから。
「好きですよ、ユーリ」
「おれもだよ。だからそんな顔するな」
「どうして、見えもしない表情が分かるんですか?」
そう少し笑って訊ねてきた声に「おれは見なくてもちゃんと分かるの」とおざなりに返す。それから回されている腕にそっと手を添え、放すように促した。そうすれば渋々ながら、背中にかける僅かな体重をも無くしてくれる。
濃い茶色の髪を揺らして私室に入るのを見送ってから、鍋へと視線を戻した。
…置いていくわけが無い。
それだけは信じて欲しいと嘆いても、きっと信じてはくれないのだろうな。そう、諦めの境地で笑う。
もう一度置いていかれるのを本当に恐れているのは、おれの方なのに。彼は何も憶えてはいない。
「ユーリ、明日は一日俺にくれるんですよね?」
「ん、約束だからな」
スプーンが皿とぶつかり音を立てる。カレーばかりを続けて食べていた気がしたので、今夜はビーフシチューにした。それでも彼の口から文句は一度も聞いた事が無い。
「じゃあベースボールの試合を観に行きましょう?確かありましたよね、試合」
全く、もっと子供らしい我儘を言ってくれても良いのに。だがそれも今更思う事では無く、今はその申し出に頷くだけだ。これではどちらが大人か分かったものじゃない。
考えて育てたわけでは無かったが、気付いたらこうなっていた。無意識にそうさせようという想いがあったのなら、大いに謝る必要がある。だとしても、こんなに似るだなんて…。
「ユーリ、スプーンが止まっていますよ。水のお代わり注ぎますね」
この子供を見ていると、吐き尽くす事の出来ない程の謝罪と、心の底に溜まっている様々な愛をぶちまけたくなる衝動に駆られる。それは年々大きくなっていくばかりで、実の父親である事を、放棄しそうになる。
「お仕事、忙しいんですか?心ここにあらずですが…」
心配気に覗きこむ表情は、やはり幼い。けれど、これがあと数年経てば…
「大丈夫だよ、コンラッド」
*
夢に見ない夜は無い。
そう言い切れるくらい、その夢しか見ない。この十数年の間、何度も繰り返しあんたを喪う。
時に矢で、時に剣で…もう、何が本当であったのか分からないくらい繰り返して、それでも結果はいつも変わらない。
とてもとても悲しいのに、毎日あんたを殺し過ぎて、涙も出なくなった。
その自分の気持ちの空虚さに気付いた時やっぱり無性に悲しくなって、今度はそんな自分に泣いた。
飛び起きた深夜、隣のベッドで健やかな寝息をたてる子供を見て、いつも深い安堵と辛い現実を認識する。夢なのに、夢じゃなかった。彼は死んだのだ、自分を護って。
またいつの日かのように、ひょっこり現れるかもしれない…そんな想いが消えずにあったが、襲撃を受けた建物から出て来た、八割方そのままの彼の体に絶望した。
ああ、何で出てきてしまったんだろう。今度は腕の一本も出て来ずに、消えてしまえば良かったのに。
死者に向けて何て言葉を吐いたんだろう。けれど彼の死を目や鼻や手で確認してしまったおれは、もうその冷たい体がウェラー卿コンラートのものには見えなくて、ただの動かない人形と同じように感じてしまった。
いつだろうか、彼に言った言葉を思い出す。
二度とおれの前に気持ちの悪い格好をして出るような真似をするな。相対する立場を嘘でも取るな。と、そう言った。
けれど、当時最大の敵対国であった大シマロンの軍服を着て出てきた時は、それでも幸せに思ったんだ。だって死んだと思ってたひとが生きてるんだもの。
結局おれは間違えた。おれは彼に対して、死ぬなと命令するべきだったのだ。
絶対におれよりも先に就寝する事は無いくせに、肝心な時に先に眠ってしまった。怒りが滲む涙を白い頬に零して、おれは彼の魂を手に入れる事を決めたのだ。
彼がおれを作ったように、おれが彼を作ろう。
その目論見は、半分成功で、半分が失敗だった。おれと彼とでは、新しい命への向き合い方から違かったのだ。その事に気付けなかった。
前の生とは別のものとして受け入れた彼に比べ、彼を再び作ろうとしたおれは何て短慮で、馬鹿だったんだろう。
おれは彼という名付け親が居て幸せだったけれど、この子には同じものは上げられない。
「んん…」
寝苦しいのだろうか、声を漏らす彼の背を撫でる。子供だ。分かっている。誰よりも愛しい命に違い無い。この子を愛しているんだ。
だが、重ねてしまう、どうやっても。
あの瞳の色が違っても、体に傷が無くとも。そもそも体なんて容れ物だと言ったのは自分だ、外見なんて二の次だと。
自分の血を分けたのは特に失敗であった。独占欲故の暴走だ。まるで彼と混ざり合ったかのような錯覚に酔ったのだ、魂とは無関係の所で。
「…ゆーり…」
寝言だと分かっていても呼ばれる名前に、笑顔を引き出される。
「なあに?」
つい返してしまった言葉に反応してか、彼は表情を和らげる。頬を突くと「やめてください」と顔を動かすのが面白くて、起こしてしまうかもしれないのに止める事が出来なかった。
「昔は、寝顔も碌に見せてくれなかったもんなぁ…」
おれの寝返り一つで目を覚ましてしまう彼は、いつ気を弛ませる事が出来たのだろう。
何も気にかける事なく、ただ心から脱力して過ごしてみたかった。二人で。
窓を開けたまま、フローリングの床の上で昼寝をしてしまうくらいの安穏。それを彼に上げたかった。
「しあわせ…ですよ、だってゆうりが…」
「分かった分かった。傍に居るから安心しろって」
そして再びこめかみに感じた痛みに眉を顰め、やっと気付いた。昼間のあれはデジャヴだと。
彼は…コンラッドは、背中から抱きしめるのが好きだった。常に背後に立っているからだろうか、対面して抱き合う回数より、ずっと多かったように思う。
そして、いつだったか細かい事は憶えていないが、彼は肩口に顔を埋めて、珍しく弱い声でおれに言ったのだ。
「こんなに幸せだと、逆に怖くて堪らなくなる」
おれはその時、「何言ってんだよ、馬鹿」と笑っただろう。怖いと訴える彼に可笑しな気分になったのは確かで、何だか小さな子供に見えた。あんなに、いつも大きく在ったひとが。
その時の彼は、今こうして髪を梳いているこの子供によく似ていると思った。
コンラッドは何度も言ってきた。幸せだと。ユーリに会えて、触れる事が出来て、話す事も出来て、愛してくれて。
その全ての言葉に「おれも同じ気持ちだよ」と返したいのに、まだそれを口にするには幼くていつも誤魔化してばかりいた。
今流れている涙は、悔しいからだ。彼ともっと触れていたかった、好きだと伝えたかった。どんなに目の前の新しい命にそれを注いでも、それは彼じゃない。
あの時すぐ傍にあったあの命を、全力で愛していた。
「怖くて堪らない、か…何だよ、浮かれた悩みだな…」
彼が彼で無くなった瞬間、恐怖が消えた。まるで何も無い、真っ白な視界、重力の無い世界。それの果てが今だ。
自分より一回りは小さい手を握りながら、その柔らかさに複雑な気持ちになる。
昔よく見せてくれた穏やかな笑顔を思い出し、ふっと目を細めた。
「怖く思う事こそが、幸せの証明だったんだよ。コンラッド」
気付いたら、隣のベッドで眠っていた筈の父親に抱きしめられていた。
少し驚いて、でも気持ち良さに身じろぐ事はしない。
自分とは違う真っ黒な髪が目の前に在って、それが揺れるのを見た。ああ、また窓を開けたままなのか。治安も良いわけでは無というのに、この人は無防備でいけない。
今から施錠しなければいけないと思うのに、でもそうしたらこの温かな腕を解く事になってしまう。それは、少し悲しい。
ユーリ、と口には出さずに呼んでみる。
ユーリという名前はとても綺麗な響きをしていて好きだ。けれど、彼は一度もパパと呼ばせてはくれない。どうしてかと訊いても、彼は悲しそうに笑うから未だ聞けず仕舞いだ。これからも一生聞けないのだと思う。
当然だけれど、十年も生きてはいない俺がどんなに知識を総動員したって彼には敵わない。俺よりも長く生きた分だけ経験もあって、悲しみがある。だからもうユーリの悲しみを増やす事だけはしたくない。彼は、困ったように笑ってばかりだ。
特に、昨日の夜は酷かった。珍しく声を荒げて止めてきたのだ、俺がフェンシングをしたいと言った事を。つい先月ラグビーがしたいと言った時は喜んで勧めて来たのに、何でフェンシングは駄目なのだろう。
気にはなったが、しかし俺は追及するのをやめた。仲間内で流行っていようと、自分にとって一番大切なのはそれでは無いから簡単に諦めがつく。
ボストンの喧騒の中に在る学校よりも、郊外のこの家にずっと居たいと思う。だってそこには一日中ユーリが居るのだ。
彼が笑ってくれる事が何よりも自分にとっての幸せだけれど、ユーリにとっては違うって事も分かっている。
ユーリが最も愛している人は誰かと訊ねた時、彼は即「コンラッドだよ」と答えてくれたし、それは本当だと思うけれど…何か、違うのだ。
でもそれは、自分にとっては障害にもならない些細な事で、だから黙っていられる。今迄一度も誰かがユーリを奪いになんてやって来なかったのだから、問題は無いだろう?
彼は常に自宅で仕事をしていて、下手をすると数日外へは出ないような人だ。いつも傍に居ると約束もしてくれた。
怖い、と思う。今が幸せ過ぎて。
もう一度瞼を閉じて心の中で告げる。窓を閉める事が出来なくてごめんなさい、と。
でも、万が一今殺人犯が侵入してきて自分達を殺したとしても…俺は不幸じゃない。
だって、貴方と生きる事が出来たのだから。
遠野さまより頂きました!
元ネタは遠野さんとワタクシ。
大阪旅行で盛り上がりながらネタを膨らませましたv
いちゃいちゃしてるコンユも良いけれど、切ないのも良いよね!ってことで。
前回、遠野さんのお誕生日に私が送りつけたネタといい、今回といい、二人揃うとロクな話をしてないのがよくわかりますwww
ユーリが切ないです。そして次男が子供なのにやっぱり次男…!
こういう話を綺麗にまとめられる遠野さんのセンスに脱帽。
遠野さんありがとうございました!
(2010.06.27)