天使と悪魔パロ - SaBoTeN/冬青さま


     1.



 生まれて初めて天使を見た日のことを、おれは一生忘れないと思う。
 広げられた両翼は真っ白で、大きくて、こんなきれいなものはみたことないと、瞬きさえ忘れて見とれてしまった。



「また見てる」
 クスクスというやわらかな笑い声が耳をくすぐる。たしなめるように頬をつつかれて、おれは慌てて一歩下がった。
「あんまりきれいだからさ」
 おれの言葉に反応したように揺れたのは、天使の象徴でもある白い羽根。陽の光を透かして輝くそれはまぶしいほどにきれいで、いつまで見ていても飽きることはない。羽ばたくときは力強いのに、触らせてもらうと一枚一枚は驚くほどやわらかくて軽かった。
 他の天使はほとんど知らないけれど、彼の羽根が世界で一番きれいだと思う。
「俺はユーリの羽根の方がきれいだと思いますけどね」
 彼は時々そんなことを言う。天使にとって、黒は禁忌だ。視界にいれただけで眉を顰める者も少なくないのに。
「ほんと、あんたって変わってるよな」
 コウモリのような羽根も、お尻の少し上から生えた尻尾も、彼に言わせると”きれい”らしい。
「ユーリだってそうじゃないですか。小さい頃に習いませんでしたか? 天使は恐ろしい生き物だから、出会ったら逃げなさいって」
「習ったけど」
 そして、天使もまた習うのだ。悪魔は恐ろしい生き物だから、出会ったら逃げなさいと。
「確かに恐ろしい相手もいますけどね。そんな中で、こうして仲良くしたいと思える相手に出会えたことは、まるで奇跡だ」
 ものすごく恥ずかしいことを言われた気がするのだけれど。
 さすが天使とでも言うべきか、なんのてらいもなくさらりと言われてしまうと照れる方がおかしい気がして、おれは誤魔化すように太陽を仰ぎ見て眩しさに目を細めた。
「今日はどこまで行きましょうか」
 あたま一つ分の身長差で、つむじに声がかかる。
 振り向きざまに見上げると、こげ茶の髪もまた陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。おれを見る瞳の中に、夜空に輝く星のような銀のきらめきを見つけて、やっぱり彼はきれいだと思うのだ。
「西の泉がいいな。ほとりの木苺が食べごろだと思う」
「了解しました」
 先日はまだ食べるには早かった。ためしに食べた実のすっぱさにものすごい顔になったっけ。彼も覚えていたようで、思い出し笑いをする彼の脇腹を肘の先で軽く小突いた。
「ったく、ほら、早く行こうぜ」
「はい」
 口許を緩ませたままコンラッドが両手を広げた。どうぞ、と言わんばかりのそれに、おれが嫌だと首を振る。
「自分で飛べる」
 おれの背にだって羽根はある。別に飛べないわけじゃない。ただ、成長途上な分だけサイズが少しちいさくて、彼のように早く飛べないというだけで。決して拗ねているわけじゃない。たぶん。
「分かっていますよ。でも、こうしたほうが早いから」
 相変わらず両手は広げられたまま、おれが飛び込むのを待っている。
「食べごろなんでしょう? 早くしないと、リスたちに食べつくされてしまうかもしれないですよ」
 だから、ね? と彼が笑う。
 のんびりと並んで飛ぶのも楽しいけれど、風を切る大きな羽根を一番近い位置で見られる特等席の誘惑も抗いがたい。
 仕方ないな、と腕の中に飛び込んだ。
 落とされないようにと、高い位置にある首へと腕を絡めると、思ったよりも強い力で抱き込まれて心臓が跳ねる。
「あんたがそんなに木苺が好きだったなんて知らなかった」
「実はそうなんです」
 間近の距離で見つめた彼が、楽しげに笑う。
『零れ落ちそうだ』
 それは生まれて初めて天使を見た日、まんまるに見開いたおれの瞳を覗き込んで、おかしそうにそう言った天使と同じ笑顔だった。



     2.



 音をたてないように細心の注意を払いながら、羽ばたいた。
 視線は先ほどから黒い姿を捉えている。岩に腰を下ろした少年は、背後から近づく気配に気付くことなく一心に西の空を見上げていた。
 いつもならば自分がやってくる方角だ。
 小柄な彼によく似合う小さな黒い羽根が左右に揺れる。そわそわとまるで彼の気持ちをあらわしているようだ。
「……」
 ユーリ−−音にせずに、口の中で彼に呼びかけた。
 本当は今すぐにでも声をかけたい。そうすれば、まぶしい笑顔を向けて振り向いてくれるだろう。
 わかっていて、わざわざ遠回りをした。時間をかけたのも、彼の背後から気配を消して近づいたのも、決して会いたくなかったからではない。
 しばらく忙しいからと嘘をついてまで距離を置いたのに、元気かと気遣いながら彼の近況が綴られた他愛もない手紙が積み重なるにつれ、結局は堪えきれずに「会いたい」と返事を出してしまった。
 会いたいのに、会いたくない。
 彼に会うのがおそろしい。
 こんなに臆病な自分がいたなんて知らなかった。



 広げた羽根が作り出した影が、少年のほっそりした身体を包み込む。背後から近づく存在に気付いた彼が、勢いよく振り向いた。
「コンラッド!」
 満面の笑顔。たった一月、会わなかっただけだというのに焦がれた姿は記憶よりもまぶしくて、胸が詰まる。
 けれど、ぎこちなくも笑みを浮かべる前に、ユーリの瞳が驚きで見開かれた。
「え……?」
 大きな真っ黒な瞳が、いまにも零れ落ちそうだ。
 一メートルほど手前に着地して、羽根を下ろす。彼が大きくてかっこいいと褒めてくれた羽根は背に隠れていないのが、彼の視線を見ればわかる。
「……すみません」
 彼に会えない間、様々な言い訳を考えたというのに、結局口にできたのはたったそれだけだ。
 天界に住む者に与えられた羽根−−光を透かして白く輝くはずのそれが今は鈍くくすんでいた。
 雨を降らせる雲の色だ。まるで、今の俺の気持ちを表すような。
 羽根も、服も。白を纏うのが当然だった。他の天使たちのようにそれを誇りに感じたことも、好ましく思ったこともなかったのに、日に日に失われていく色を見て湧いた感情は恐怖だった。
「コンラッド。羽根、どうしたんだよ。なにかの病気?」
 見上げてくる瞳が、縋るように揺れていた。
「……いいえ。病気じゃないんです」
「じゃあ、なんで。治るんだよな?」
「すみません」
 嘘を付くことは簡単だが、それはきっとすぐにばれる。何より、彼に嘘をつきたくなかった。だから、もう一度、同じ言葉を口にした。
「ごめんね、ユーリ。せっかく、あなたがきれいだと褒めてくれたのに」
「そんなの、どうだっていいよ!」
 羽根の色なんて、どうでもよかった。彼と出会って、その色を褒められて、はじめて白い色も悪くないと思った程度だ。
 彼が好きだと言ってくれた白が失われたら、彼はきっと自分以上に悲しんでくれる。確信があったからこそ、会うのがおそろしかった。
「それでも、ごめんね」
「なんで、あんたが謝るんだよ」
 彼の顔がくしゃりと歪む。大きな瞳から一気に水分が溢れ出す様が、かわいくて、かわいそうで。
 震えながら伸ばされた指先が、胸元を掴む。ぶつかるようにして、胸に飛び込んだ身体が肩を震わせ、嗚咽を零した。
 その背を抱きしめながら、胸が震えた。
 泣かせたくない。大切にしたい。そう思っていたはずなのに、彼が自分のために泣いてくれるのが、ひどく気持ちいいなんて。



 悪魔に恋をした。
 くすんだ羽根がこのいびつな感情に対する罰だとしても、この想いを断ち切ることなどできそうになかった。



     3.



「どうするんだよ、それ」
 昔からの腐れ縁がふらりと訪ねてくるのは今に始まったことじゃない。玄関があるのにわざわざ窓からやってきた侵入者に驚く必要はなく、コンラートは肩を竦めた。
「どうもしないさ」
 誤魔化したつもりはないのに、返事が気に入らなかったのだろう。天使にしては珍しい太陽を思わせるオレンジ色の髪を大げさに揺らして頭を振った男が、大きなため息を吐いた。



 手土産に酒を持ってくるぐらいの気遣いはできるらしい。勝手にグラスを用意するのを横目に、簡単なつまみをテーブルに並べれば酒席の始まりだ。グラスを合わせる必要もない。
 味よりもアルコール度数で選んだとわかるそれを互いに手にとり、口を潤すとさっそく口を開いたのはヨザックの方だった。
「あんた、本当に天使をやめる気か?」
「やめたくたって、やめれるものじゃないだろう?」
 羽根の色が変わったところで悪魔になれるわけじゃない。堕天使だって”天使”だ。
「そういう話をしてるんじゃねえよ。なんだよ、その羽根の色は」
 最初は付け根の辺りにうっすらと灰色が混ざった。よく見なければ気付かない程度の変化は、じわじわと範囲を広げて濃さを増した。少しずつ、けれど着実に。
「見たまんまだ」
 ユーリに見せた時よりも、さらに濃さが増した。かつての色は見る影もない。太陽の光も通さない厚い雨雲を思わせる色の羽根を広げてみせると、幼馴染が顔を顰めた。
 まだ先端に行くにつれて白が微かに残っているが、付け根のあたりはほとんど闇の色に近い。これならば遠くない未来に、一色に塗りつぶされることだろう。
「黒い色もきれいだろう?」
 変化していく羽根を見て、真っ先に思い浮かべるのは一人の少年だ。黒を身にまとう彼を見ていると、物心が付く前から教えられてきた忌むべき色が、とてもすばらしいものに見える。
「幸せそうなツラしやがって。ったく、どーすんだよ。天界から追い出される日も近いだろ」
 黒い色は禁忌。白い羽根を失った天使は地上に堕ちる。それが天界のルールだ。
「彼が、一緒に住まないかって言うんだ」
「あー、そうですか。おめでとさん。けっこう馬鹿だったんだな、あんた」
「そうみたいだな」
 彼に出会うまで、知らなかった。そんな小さな発見も楽しいものだと笑うと、グラスの中身を煽った幼馴染が手酌でグラスの中を満たした。
「ったく。引越ししたら、祝い持って遊びに行ってやるよ」
「会わせないぞ」
「なんでだよ。仲良しの幼馴染ですって紹介してくれてもいいだろ。って、そんな嫌そうな顔しなさんな」
 屈託のない彼のことだから、紹介したら、きっとコイツにも自分に向けるのと同じ笑顔を向けるはずだ。なんだかんだと意気投合しないとも限らない。
 それはきっと面白くない。
「勿体無い」
「心が狭いな。天使向いてないよ、あんた」
「そう思うよ」
 天使と悪魔が相容れないというならば、天使であることに何の未練もない。
 早いペースで空になった瓶を振る男のために、新たな酒を提供してやった。ラベルを見て口笛を吹くヤツに飲ませるには勿体無いような酒だが、今夜は特別だ。
 たぶん、この部屋で飲むのは最後になるのだから。



     4.



 夕食の後、羽根を見せて欲しいとお願いした。
 目の前の広い背中の肩甲骨の辺りが、淡く輝く。少しずつ広がりをみせた光が消えると、現れたのは背中を覆い尽くす大きな羽根だった。大きさも形も変わっていないのに、色だけが以前とは違う。数ヶ月前までは、陽の光を受けて輝いていたのに。
 黒が混ざった灰色は重たく苦しげに見えて、おれは唇を噛みながら目の前の背中に額を押し付けた。
 天使にとって、白は大切な色なのに今は見る影もない。何もしてあげることができないのがすごく歯がゆい。
「前より、黒くなってる」
 見せてもらった手前、指摘しないわけにもいかず重い口をどうにか開くと、コンラッドが振り向いた。
「あなたがそんな顔をすることはないんだ、ユーリ」
 羽根に包まれていた頬が、今度はコンラッドの両手に包まれた。額がこつんとぶつかって、近い距離の薄茶の瞳が細められる。こんな時まで笑わなくていいのに、コンラッドはいつでもやさしい。
「あんたこそ、そんな顔すんなよ」
 おれのほうが逆に慰められて、どうするんだ。
 一緒に暮らしはじめてから、コンラッドはほとんど羽根を出さなくなった。家の中では邪魔になるので、と笑っていたけれど、おれに見せないようにしていたことぐらい、鈍いおれにだって分かる。
 近いうちに天界を出ることになった、と言葉少なく告げたコンラッドをうちに来るように誘ったのはおれで、遠慮する彼に強引に約束をとりつけた自覚がある。彼は最後まで悩んでいたけれど、結局は折れてこうしてうちに来てくれた。
 ふたりでの生活は思った以上に楽しくて、おればかりが嬉しくて、時々、すごくどうしたらいいのか分からなくなる。
 もっと、彼の力になりたいのに、いつも貰ってばかりだ。
「なあ、コンラッドは理由を知ってるんだよな?」
「ええ」
 自分は納得しているのだから気にするなと、彼は言った。理由は、いつか話すから聞かないで欲しい、とも。だから、おれは調べるのをやめた。
「聞いたらダメ?」
「もう少しだけ、時間をください。いつか、話しますから」
「そっか」
 いつかじゃなくて今聞きたいんだと喉元まででかかった言葉を無理やり飲み込んだ。
 なんで、笑えるんだろう。その理由も、いつか聞けるんだろうか。
「ユーリ、俺はね。このままどんどん色が変わって、黒く染まってもいいと思ってるんだ」
「なん、で」
 おれがあんまりにも情けない顔をしていたせいかもしれない。頬から離れた手に、引き寄せられた。大きな手が背中を撫でる。
 黒い羽根の付け根をくすぐられるのが好きだと、もうコンラッドには随分前に知られてしまっていて、おれは力が抜ける身体を彼の胸にもたれかからせた。
「あなたと同じ色だから」
 あまく、やさしく囁く声がする。
 コンラッドは天使だから。天使には白い羽根が必要だと思うのに。
 羽根の色が元に戻ったら、彼は天界に帰ってしまうかもしれないと思えば、素直に喜べない自分が嫌になる。
「ごめん」
 力なく謝るおれの背を、コンラッドがいつまでも撫でてくれるから、おれはなかなか居心地のいい腕の中から抜け出すことができなかった。





(write:2017.07.31/up:2018.07.01)


Illustration:冬青様