大事なものは腕の中 - 更紗さま

注意:R18作品になります。
18歳未満および苦手な方は回れ右をお願いします。







OKな方は
























 血盟城の執務室。その一室の一番日当たりの良い場所に、上質で重厚感のある執務机が置かれてある。
 普段は侍女のたゆまぬ努力のおかげで顔が映るほどにぴかぴかに磨き上げられているそれだが、今は書類の山がそびえ立っているのでその様子は窺えない。
 その書類の山に埋もれるようにして、艶やかな黒髪がふらりと揺れた。この部屋の主、魔王陛下だった。彼は呻くような声を上げた後に伏せていた顔を上げて、虚ろな目をしてぽつりと呟いた。
「どこか遠くへ行きたい……」
「構わんぞ」
「……。……え、いいの?」
「ああ。それが終わったらな」
 ユーリは驚いた面持ちで傍にいるグウェンダルを見る。といっても目の前の書類の山が視界を防いでいるので、彼の姿は見えない。見えなくても、きっとこれ以上ないほど眉間に深い皺が刻まれているのだろうと何となくわかる。
 まさか意図せず零れた現実逃避願望に対してお許しが返ってくるとは思わなかった。
 ユーリは訝しむように、書類の向こうにいるはずの男の顔を見ようと身体を傾けた。椅子から転げ落ちそうになるほどに首を伸ばしてようやく見えた。予想通りの、憮然とした表情だ。
「最近特に忙しかったからな。二、三日程羽を伸ばしてくると良い」
 珍しいこともあるものだ。
 不本意そうにとはいえ、いつも何かと五月蠅いお目付け役の許しが出たとあれば話は早いもので、休憩時間の合間にタイミング良く用事から戻ってきた名付け親と共に、あっという間に計画を立てたのだった。普段からそのやる気があればな、と深いため息と共に寄越された言葉には、聞こえないふりをさせてもらった。
「どこか行きたい場所とか、したいこととかありますか陛下」
「陛下ゆーなよ、名付け親。行きたいとこねえ……折角貰った休みだからなあ。ゆっくりしたいよな。温泉とかどうよ」
「温泉! いいですね。それなら俺に任せて貰えませんか?」
「そりゃ勿論。あんたさえ忙しくなかったら任せるよ」
 わかりましたとコンラートは心持ち嬉しそうに頷き、指を三本立てて見せたのだ。
「ただし三日間程待っていただけますか? 準備があるので」
 異論などあるはずもない。悪いけど頼むよと頷き返して、ユーリは仕事を片付けるべく書類の山と再び向き合った。
 残念ながらグウェンダルから課されたノルマを終わらせるには、三日間という時間はまったく足りず、ユーリとコンラートが血盟城を出たのはそれから一週間後のことだった。




「グウェンが言うには、思わず休みを差し出したくなるような顔をしていたらしいですよ」
「うん、そうだろうな。おれ今でも気ィ抜いたら落ちそうだもん」
「地面に落ちる前に拾って差し上げますからね。もう少し頑張って」
 アオとノーカンティーにそれぞれ跨り、二人並んでなだらかな丘陵を登ってゆく。
 頬を撫でる風は、初夏の爽やかさを思わせる心地の良いものだった。足元で野花が揺れていた。白くて小さな可愛らしい花だ。
 頭上で広がる青空を仰いで思わず大きく深呼吸をしてみると、頭の中がすっと冴え、疲れた体が心持ち軽くなったような気がした。
 市街へと続く道、いわば血盟城の顔とも言える正門よりも、一回りも二回りも小さなひっそりとした通用門から伸びる小道は、快晴の昼時であるにも関わらず人の姿がほとんどない。
 街とは反対方向に伸びるそれは最初こそ見晴らしのいい丘だったが、次第に樹木生い茂る森林の中へと入っていった。
 緩やかに上ってゆく道を慎重に手綱を操りながら進んでゆく。一応道としての体裁は整えられているようだったが、それでも足元が不安定なことには変わりはない。
 背の高い木立の合間から柔らかい陽光が降り注ぐ。視界が緑色に染まっていた。どこからか鳥の鳴く高い声が、近くを流れる小川からは涼やかな水音が聞こえてくる。足元で光と影がいくつも踊っていた。思わず目を閉じると、瞼の裏にじんわりとした熱を感じる。緑が眩しい。
 少し湿ったような独特の匂いは、自然で満たされた静謐な空気だった。
 再びゆっくりと瞼を開けたユーリは、思わず嘆声を漏らす。
「すげえ。マイナスイオン全開って感じ」
「何ですか、それ?」
「なにって……何だろうな。健康に良さそーとか、癒されるーとか、とにかくそういう雰囲気ってことだよ」
「なるほど。じゃあユーリはマイナスイオンですね」
 何を寝ぼけたことを言うのか。
 連日連夜の執務に追われていたユーリは突っ込む気力もなかったので、あんたほどじゃないよと適当に返事をしておいた。
 無理のないペースでそのまま馬を進めてゆくと、次第に視界が開けてきた。
「さあ見えてきましたよ」
「え、もう着いたの?」
 顔を上げると、なるほど確かに大きな屋敷のようなものが見える。
 のんびりとしたペースに加え、一度も休憩を取らずに着いてしまった。近いなと驚いたように言うと、遠くだとあなたが辛いでしょうと名付け親が笑った。それもそうだ。二、三日程度では行って帰ってくることを考えるとさほど遠くまでは行けない。ましてや目的が休養なのだから尚更だ。
「地球だと車や飛行機であっという間に遠くまで行けますが、こちらだとそうもいきませんからね」
「そりゃそうだ。でもおれは、こういうふうに馬に乗ってのんびりっていうのも好きだけど。こっちの世界に来たときのおれの楽しみだよ」
 そう告げると男は妙にこそばゆそうに笑うのだった。瞳の中の銀の星が陽光に照らされて、一際美しく輝いている。
「もともとここは数代前の王が、自然を愛する王妃のためにとお造りになった離宮でした。別荘のようなものといえば分かりやすいでしょうか。王妃は夫の愛情に感激し、緑豊かなこの場所をとても愛されたそうですよ。本来は夏の避暑地としてのものでしたが、王妃は季節に関係なく幾度となくこの場所を訪れたそうです。残念ながら、王が退位なさってからはほとんど使われてはいないようですが」
「全然使われてなかったのに何であんたがこの場所を知ってんの?」
「まあ一応これでも王宮警護の責任者なので」
「それもそうか」
「そうなんです」
「でも使われてない割には綺麗にしてあるなあ。えーともしかして……?」
「その為の三日間でした。結果としては一週間の準備期間になりましたがね」
 コンラートはそう言って悪戯めいたように笑った。
 辿り着いた屋敷は森林の中にぽつねんと存在しているにも関わらず、それを不自然と思わせないような落ち着いた色合いをしている。
 王が造らせたものというわりには、やや小さい控えめな印象だ。といってももちろんユーリの感覚からしてみれば十分立派である。
 きっと名のある建築家に造らせたのだろう。凛とした美しい佇まいをしていた。
 中に入ってみると、しばらく使われていなかったという言葉が信じられないほど、綺麗に手入れがされている。さすがに何年も前に建てられたものだから、家具や調度品は新しいものを入れたのだろう。結果として一週間になってしまったが、三日間でもきっと同じように準備されていたはずだ。それを思うと恐ろしい。何が恐ろしいって、自分の何気ない一言で一体どれほどの人員が動いてどれほどの税金が使われたのかが。
 色々なものを通り越していっそ呆れるような心境になったユーリだったが、心の中を覗いたようなタイミングでコンラートがにっこりと笑う。
「なのでお気に召したのなら、たまに利用してやってください。そのほうがこの屋敷も喜びますから」
 休むときはちゃんと休めと暗に告げられて、次はグレタも連れてこようかとユーリは苦笑するしかなかった。
 滞在中に世話をしてくれる者として、十名程の魔族と顔を合わせた。魔王陛下の身の回りの世話をするにしてはこれでも十分少ないのだが、ユーリにとっては何とも勿体ないやら申し訳ないやらといったところだ。
 皆、普段はそれぞれ血盟城で働いている者ばかりなので、半分くらいは既に見知った顔である。しかしもう半分は血盟城で働いてはいても、こうも間近で魔王陛下と対峙すること自体初めてなようで、しきりと高揚に頬を赤らめて身体を固まらせていた。
 あまつさえその美しい顔で惜しげもなくにこりと微笑まれ、短い期間だけど宜しくお願いしますと直々に頭を下げられたのではたまったものではない。赤かった顔が一瞬にして白くなり、青くなっていった。その中で一番年の若い少女は、もはや涙目になっている。一連のその様子をコンラートは肩を震わせて眺めていた。
「まったく、あなたといると飽きないな」
 二階へと続く廊下を上りながら、未だに笑いを噛み殺している名付け親を呆れたように見上げる。
「そんな笑わなくたっていいだろーが」
「いえ、すみません。ああいうの、久々に見たなあと思って」
「まさか泣かせるとは思わなかったけどさ。またヴォルフに怒られちゃうな。威厳がないって」
「可愛らしいですね」
「ああ、あの泣いてた子な。慣れてない感じが初々しかったよな」
「あなたのことだよ、ユーリ」
「……っ急に顔を近づけるな」
 階段の踊り場まで来たところで、急にぐっと距離を縮められて慌てた。自分が案内するからとコンラートが断ったので、周囲には他に人影がない。
 すいと自然な仕草で腕が持ち上がって、指先がこちらに伸ばされる。人差し指と中指で梳くように髪のひとふさに触れ、その拍子に僅かに耳朶を掠めた。
 思わず声が漏れそうになるのを何とか堪えて、恨めしげに下からねめつけたが、返ってくるのはくすくすと楽しそうに笑う声だけだ。
「……あんた今日はやけに朝から浮かれているよな」
「あれ、わかります?」
 これでも精一杯隠していたんだけどなあと、本気なのかそうでないのかいまいち判断しかねる仕草で首を捻る男を呆れたように一瞥した。
 確かに他の人ならばわからなかっただろう。ウェラー卿は今日もにこやかで悠然として凛々しくていらっしゃるわなどと、彼とすれ違う貴婦人たちが揃って頬を染めて瞳を輝かせることは日常茶飯事だったが、出逢った当初はともかくとして恋仲となった今となっては、何とも笑える話だとユーリは思うのだった。
 確かににこやかで悠然として凛々しくはあるが、それ以上にこの男が人一倍嫉妬深くて心の中では穏やかならぬことを考えていて、その割には時々妙に悲観的であることを知っている。いや、知ってしまったというほうが正しいだろうか。
 彼の気の置けない友人であるヨザックなどは、要するに面倒臭いヘタレなんすわと身も蓋もない一言で片付けてしまうのだが、さすがにそこまで恋人を貶めることはできないユーリである。
 そんなふうに、ごくごく親しい人にしか見せない彼の一面を知るユーリだからこそ、朝から普段の三割増しでにこにこしている彼の様子にも気が付けた。
 つまりコンラートは、心の底から楽しんでいるのだ、ユーリと過ごす三日間を。あまりにあからさますぎて、逆にこちらのほうが恥ずかしくなってくる。
「もう少し落ち着けよコンラッド」
「これでも十分落ち着いていますとも。むしろ俺としては、あなたのその冷静さに異議を申し立てたいところですよ。ユーリは楽しくないんですか?」
 拗ねたように言う様がおかしくて、つい笑ってしまう。
「ごめんごめん。楽しいよ、すごく。あんたが隣ではしゃいでいるから、逆に落ち着いちゃっただけ」
「ひどいな、それは」
 苦笑するコンラートの肩を、まあまあと宥めるようにぽんと叩く。すると何を思ったのかコンラートは悪戯っ子の笑みでにっと笑うと、ユーリの手を取ってあっという間に自分のそれと重ねてしまった。互いの指と指が絡まる。唇が耳元に寄せられ、内緒話をするように小さな声で囁かれる。
「こういうのって、何だかハネムーンみたいで楽しいですよね」
「ば……ッ」
「大丈夫、誰もいません」
 するりと指先で手を撫でられて一瞬焦ったが、それは宥めるような、親しみのあるあたたかな触れ方だった。向けられる視線のやわらかさに、ユーリは詰まった息をそっと吐き出す。
 ひたと視線を受け止めると、瞳の中の銀の星が嬉しさを堪えきれないように瞬くのだった。それを間近で見つめることが出来るのは、自分だけの特権だ。
 はあ、とユーリは再び溜息を付いた。意趣返しのつもりで手を強く握り返すと、ほんの僅かに榛色の双眸が見開かれる。
「なるほどな。だからあんた、朝から俺のことずっと名前で呼んでたんだな」
「ばれましたか」
 さすがに照れくさいなと笑う彼は、まるで子供のようだった。
「普段あれだけわざとらしく陛下って呼ばれてりゃさすがにね」
「わざとだなんて酷い。あれは一応俺なりのけじめなんですよ」
「そうかいそうかい。おれはてっきり、陛下ってゆーな! っておれに言わせたいだけかと思ってたよ」
「もちろん否定はしません」
 声を潜めるようにして二人でくつくつと笑う。
 そこでふとユーリは真面目な顔になって、コンラートに向き直った。
「新婚旅行ごっこだったらおれもコンラッドのこと、『あなた』って呼んだ方がいいかな?」
 そこでとうとう堪えきれずにコンラートは腹を抱えて笑ったのだった。




 まどろみの中から意識が浮上する。
 目を開けると寝台の天井が見えて、それからすぐにコンラートが顔を覗き込んできた。
「おはよう、ユーリ」
 囁くようなやわらかな声を受け止めて、目を瞬かせる。
「あれ……おれいつの間に寝ちゃったんだっけ」
「部屋に着いてすぐですよ。ベッドに倒れ込んだと思ったらあっという間に可愛らしい寝息が聞こえてきました」
「かわいい言うな」
 なるほどどうりで妙に頭がすっきりしているわけだ。
 起き上がり身体を伸ばすと気持ちが良い。タイミング良く水の入ったグラスが差し出されたので有難く受け取った。こくりと一口喉に流し込んで、改めて周囲に視線を巡らせる。
「はー。こんな部屋だったのか」
 ろくに見もせずに眠ってしまったから気付かなかったが、控えめながらも気品を感じさせる部屋だった。どれもが最高級の品であるはずなのに、そうとは感じさせない造りが何とも好ましい。
 バルコニーへと続く窓から黄味がかった光が射しこもうとしているのを見て、ユーリが瞠目する。
「うわ、結構寝ちゃったみたいだな」
「身体は大丈夫?」
「うん、ちょっと寝たら楽になったよ」
「それは何より。夕食とお風呂と、どちらがいいですか?」
「もう晩御飯用意してくれてんの?」
「ええ。いつでも大丈夫だと言っていましたよ」
「なら晩御飯だな。これ以上待たせるのも悪いし」
 彼らはそんなこと気にしませんよとコンラートは笑ったが、身体も空腹を訴えていたので丁度良かった。
 そうして迎えた食卓で出されたのは、王宮で口にするような豪華で堅苦しい食事などではなく、市街の人々が普段口にしているような、いわばおふくろの味といった素朴な料理の数々だった。
 そんな料理を見るからに恐縮した様子で運んできたのは、先ほど泣かせてしまったばかりの少女だ。彼女は自分の運んだ質素な料理の数々を、本当にこの国の最高権力者の前に差し出していいものか迷っているのだろう。ユーリが瞳を輝かせておいしいおいしいと頬張る姿を見てようやく、あからさまにほっとしたように肩を撫で下ろしていた。
「これ、コンラッドがリクエストしておいてくれたんだろ?」
「ええ。あなたのことだから、こういう家庭料理も喜んでくれると思って。気に入ったのなら後で厨房係に声を掛けてやってください。喜びますから」
「もちろん!」
 にっと笑ったユーリに、コンラートも微笑み返す。
 王宮で出される豪華な食事ももちろん文句なく美味しいのだが、如何せん庶民派の自分としてはたまにこういったくつろげる料理が恋しくなるのもまた事実だった。遠まわしにそういうものが食べたいと言ってもとんでもないとばかりに良い顔をされないし、普段から力を入れて作ってくれている料理長を一度泣かせてしまったものだから、それ以来ユーリはそういったことを言わなくなった。
 だから街にお忍びで遊びにいくときは、そうした料理を好んで口にしていた。そのことは、目の前の男が一番良く知っている。ユーリが何を好んで何を望んでいるのかをごく当たり前のように受け止め、そうとは悟らせずにそっと差し出してくれるのだ。
 ユーリは柔らかく煮込まれた肉にフォークを突き刺して、芝居がかった調子で笑って肩を竦めた。
「あんたはおれを甘やかしすぎだな」
「何を今更」
 至極もっともな言葉だ。
「でもね、別に甘やかそうと思ってやっているわけではないんですよ、本当に。ただあなたが素直に喜んでくれるから、俺にはそれが純粋に嬉しいだけです」
「そう言われるとおれは頷くしかないな」
 思わず苦笑する。なぜなら嫌というほど身に覚えのあることだからだ。自分の大切な人に喜んでもらいたい、喜ぶ顔が見たいと願うのはごく当然のことだ。
「あなたの喜ぶ顔が見たくて俺が勝手にやっているんだから、ある意味では俺が俺自身に甘いのかもしれませんよ?」
 無茶苦茶な理論で笑って言われたので、今度こそユーリは呆れたように肩を竦めた。
「じゃあおれはあんたを喜ばすために、素直にあんたの甘やかしを受け取っておくことにするよ」
「そうして頂けると嬉しいですね」
 にっこりと、これ以上ないくらい晴れやかな顔でコンラートは笑った。
 食事を終えて食堂を後にする際ユーリは、ずっと給仕に徹してくれていた侍女たちと厨房に律儀にも礼を述べた。
 侍女の中の一人にコンラートが問いかける。
「湯殿はもういけるね?」
「ええ、準備も整っておりますので、いつでも御利用できますよ」
「だそうです。行きますか?」
「もちろん」
 そうして案内されたのは、来て早々ユーリが眠りこけていた部屋だった。
「ここっておれらが使う部屋だよね?」
 常識でいえばもちろん王と護衛が同じ部屋で過ごすわけもないのだが、ごく当たり前のように二人で過ごす部屋だと認識しているユーリである。それに気付いていながらもコンラートは素知らぬ顔で頷いた。
「ええそうですよ。こちらです」
 なるほどちゃんと備え付けの風呂があったのかと素直に納得したユーリだったが、この頃にもなるとすっかり忘れていた。一番最初に休暇の使い道についてコンラートから尋ねられたときに、自分が温泉をリクエストしていたことを。
 だから扉を開けた先の屋外に広がる、岩場造りの風呂を見て歓喜を上げたのだった。
「露天風呂! うそ! なんで!?」
「うーん良い反応ですねえ」
 コンラートがにこにこと満足げに頷いた。
 はっと我に返り子どもじみた己の反応に思わず赤くなったが、そんなことを一々からかう様な男ではない。代わりにユーリの瞳を見つめて、優しげに微笑んだ。心の声を代弁するならば、可愛いなあといったところだろうか。これなら揶揄されたほうがいくらかましだと余計に恥ずかしくなる。
 赤い顔を隠すように、欄干へと駆け寄る。後ろで全てお見通しの楽しげな笑い声が聞こえたが丸っきり無視した。
「こちらの世界では平民ならばともかく、貴族の露天風呂の風習はあまりないですからね。驚きました? この離宮があまり使われなかったのも、実はそのせいもあるんじゃないかと俺は思うのですが、あなたなら馴染みのあるものだから一度御招待してみたかったんです」
「うん、すげえ。紛うことなき露天風呂だよ、これ。うわあ景色もいいなあ。血盟城が良く見える!」
 言葉通り眼前に広がる景色を見下ろして、ユーリは目を輝かせた。
 広がる城下町と、荘厳にそびえ立つ血盟城。なだらかな丘陵に建てられている屋敷なので、王都が一望できるのだ。こういう形で外から眺めるのは、これが初めてだった。
「最高の贅沢だな」
 にっと笑ったユーリの言葉にコンラートも満足げに頷いて、お背中流しますよと声を掛けた。
 


 空が燃えるように染まっていた。
 太陽の姿はもうほとんど見えない。王都のさらにその先、遥か向こうへと隠れてしまった。それを名残惜しむように、濃い朱色が視界を染め上げている。だがそれも一時のことだ。頭上にはとろりとした濃紺が迫っていた。初夏の質感ある雲がその輪郭を、黄金にも似た朱色に輝かせている。一番星が切ない瞬きで輝いていた。
 周囲を取り囲む木々は黒々とした影を落としているのに、少しも恐ろしいとは思わない。目に映るもの全てが、静かに胸を締め付けている。それは自然が魅せる圧倒的な色彩だった。
 どのくらいそうして眺めていただろう。やがて自分の意識しないところで、胸の内から溢れたあらゆる感情を内包した小さな言葉が、自然と口から零れた。
「……きれいだな」
「ええ、本当に」
 湯船に並んで浸かったまま、しばらくそうして眺めていた。
 太陽が沈み始めてから完全に見えなくなるまでの、僅かな時間だ。穏やかな心持ちで眺めた景色は、不思議と永遠のものであるような錯覚をもたらす。もちろん現実にはそんなことはありえない。それでもそう願わずにはいられない。
「この離宮を愛した王妃さまの気持ちがよくわかるよ。大好きだったんだな、眞魔国のことが」
 コンラートは黙ったまま、小さく微笑むことでそれに応えた。
 普段は榛色の瞳も、今だけは空と同じ色に染まっている。その中で煌めく銀の星がある。いつだって優しく輝いては、ユーリの心をそっと包み込む。
「今日はありがとな、ここに連れてきてくれて」
「礼を言って頂くほどのことではありません」
「そんなことない。楽しかった」
「それは俺のほうです」
 決して相手を喜ばせようと思って伝えた言葉ではない。ただ自分が感じたありのままを伝えただけだ。
 それでもコンラートが嬉しそうに、とても嬉しそうに微笑むから、ユーリは胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
 隣に座るコンラートへと身体を寄せる。乳白色のなめらかなお湯が、ちゃぷんと控えめな音を立てた。
 小さく微笑んだコンラートが、ユーリの髪へと触れた。洗いたての濡れた髪を、長い指がやわらかく梳いている。
 されるがままに大人しくしていると、その気持ちよさと湯の心地いい温度に眠ってしまいそうだ。そっと瞼を閉じる。
 髪を撫でていた大きなてのひらが頬を包み込んだ。そして唇をついばむようにあたたかな感触が触れて、そして離れた。
 こそばゆさに笑って身を捩ると、二度、三度と同じようにして触れてゆく。何だか楽しくなって、目を閉じたまま、鼻先を擦りつけるように彼の瞼、唇、首元へと触れていった。小さく笑う声が耳に心地良い。
 ふと目を開けると、想像していた以上にとろけそうな顔をしてこちらを見つめている男と目が合った。
「……う」
「何でそこで急に赤くなるんですか」
 ぷっと吹き出されて、顔が余計に赤くなるのを自覚する。
「あ、あんたがとんでもない表情してるからだろ!」
「どんな?」
「……るさいな」
 まさか、おれのことが好きで好きで仕方がないと全力で伝えてくる表情、とは言えない。
 自分でもわかっているくせに、とぼけた振りをして聞いてくるところがこの男は何とも意地が悪いのだ。
「ユーリ」
「……何だよ」
「愛していますよ」
「いちいち言わなくて良……ちょっ、」
 指で顎を掬うように顔を上げられ、そのまま成すすべもなく唇が落とされた。軽く押し付けられる程度だったが、窺いたてるようにちろりと舌で舐められた。自然と強張った背中を宥めるように、大きな手のひらが優しく撫でる。しかしそれも今のユーリには逆効果でしかない。ぞくりとした感覚が背筋を伝う。
 くすくすと笑う声はやはり楽しそうだ。今にも鼻歌を歌いだしそうな調子で今度は瞼にキスを落とされて、ユーリは諦めたように両手を挙げて早々に降伏宣言をした。
「――のぼせるから程々にしてくれ」
「善処します」
 大変良い返事だが、限りなく疑わしい。
 この上なくにこやかに言われて、これは期待しないでおこうとユーリはひっそりと嘆息した。
 すっかり陽が沈んでしまったので周囲は暗い。けれども足場には小さな灯りが幾つか置かれてあるし、その日は月も出ていたので互いの表情を読み取れる程度には明るかった。
 右手を掴まれ、引き寄せられる。
 抵抗なく身を寄せた先にユーリは顔を埋めた。
 灯りが男の肢体をほんのりと淡く照らし出した。厚い胸板だった。
 衣服を着ているとそうとはあまり感じないのに、こうして一糸纏わぬ姿を目の当たりにすると、その鍛え抜かれた肉体に改めて感心させられる。ヨザックのような隆々とした筋肉ではないが、バランス良く無駄のないそれはまるでしなやかな鋼のようだと思う。
 自分がこうありたいと願う理想そのものを目の当たりにして、普段ならば男としての劣等感が大いに刺激されるところだが、このときばかりはそんな余裕などあるはずもない。これから与えられる快楽を知っているだけに、落ち着かなさに彼の視線から逃れることしか出来なかった。
「ユーリ」
 とても静かな、しかし有無を言わせない声だった。
 低く唸って、ゆっくりと男の顔を見上げる。薄暗くてもきっと彼にはわかってしまうだろう。隠しきれないほどに、頬が熱い。
「コンラッド……ん、」
 唇が押し付けられる。先ほどとはまったく違う、溢れ出す情感を隠そうともしない、深いキスだ。
 角度を幾度も変えて、熱い舌がユーリの口腔を蹂躙する。ときに緩慢に、ときに性急に。歯列を伝い、唇を食み、そうしてユーリが鼻で呼吸をするのも苦しくなって、涙が滲んだころになってようやく解放された。
 男の胸に額を当てて、息を整える。
 強引なそのやり様にほんの少しだが苛立ちを覚えた。
「あんたなあ……っ」
 文句を言おうと勢いよく顔を上げたユーリだったが、その瞬間何かを言うのも忘れたように固まった。
 灯りのゆらめきを宿した瞳が、ひたむきな熱を伴ってユーリを真っ直ぐに見つめていたのだ。それは紛れもない、欲情の証だった。彼はユーリに欲情している。隠しきれないほどに、どうしようもなく。
「ーーーーッ!!」
「どうしたんですか?」
「も、ほんとこいつやだ……」
「ユーリ?」
 これ以上ないだろうというくらい顔を赤らめて、ユーリは再び力なく顔を伏せた。
 一方のコンラートはといえば、本当にわけがわからないといった様子で首を傾げるばかりだ。少なくともとぼけているようには見えない。この男は基本的に何事に関しても鋭い男だったが、時々恐ろしく自分自身に無頓着でもあるのだ。
 コンラートがどこか体調が悪いのだろうかと顔を覗き込もうとしたところで、ユーリが勢いよく顔を上げて指を突きつけた。
「いいか、絶対にそんな表情他の誰にも見せたりするなよ!」
 きょとんとしたようにユーリの目を見つめ返したコンラートは一瞬考えて、それからすぐに得心したように破顔した。
「それは無理な願いというものですよ、ユーリ」
「何でだよ!?」
「そもそも、あなたの前でしかこんな風になれないからね、俺は」
 腰に直接響くような低い声で囁いて、男は色気の滲む表情で微笑んだ。
 それを真正面から見せられたのだ。たまったものではない。


 唇が首筋に押し付けられる。
 湯で既に身体は温まっているのに、その唇はまるで熱の塊のように熱かった。
 じれったいほどにゆっくりと、少しずつ場所を変えて唇が落とされる。
 後ろから伸びてきた逞しい腕が、ユーリの火照った体を抱き直すように強い力で回された。その拍子に身体の中に埋め込まれた男の牡が、ユーリの奥を掠める。
「んっ……」
 それはきっと偶然などではない。その証拠に飽きもせずにユーリの首筋に顔を埋めていたコンラートが、耳元で低く笑った。
 ずっとこんな調子だ。頭の天辺から足の先まで、じくじくとした快感がさざ波のように押し寄せてくる。そのくせどれもが中途半端にしか与えられない。この身体を大人しく抱きしめているかと思えば、思い出したように快楽を刻み付ける。それはユーリにとって拷問にも等しい、耐えがたい時間だった。
「コンラッドぉ……」
 涙を滲ませた瞳で訴えるように後ろを振り返ると、すかさず唇を掠め取られた。今さら抵抗する気力もなく、口内を犯す舌をぼうとした頭のまま受け止める。
 一通りユーリの唇を味わったコンラートは、白々しく首を傾げて笑った。
「もう少しいけますよね?」
「ムリっ。ほんと、も……おかしくなりそう」
「うん、ユーリにおかしくなってもらいたいんだよ、俺は」
 瞼に口付けながら、さらっととんでもないことを言う。ユーリは泣きたくなった。
 両手は後ろから回されたコンラートの腕で、拘束されたように動かせない。
 そもそも、我慢しようね、と子どもに言い聞かせるように優しい声で言われてしまうと、それだけでどうにも抗えないのだ。友人に知られたら、良い具合に調教されてるねえと笑われそうなものだが、幸か不幸か今のユーリにはそこまで考える余裕がない。
 そうこうしているうちに、男の指先が胸の飾りに伸ばされていた。既に散々弄られているそこは熟れたように赤く膨れ、ほんの少しの刺激にも反応してしまう。指先で摘まむようにされて、嬌声とも吐息ともつかないものが口から洩れた。
 絶妙な力加減で捏ね回されて、少年の身体がびくんと跳ねる。愛おしむように、空いているほうの男の長い指が喉元に触れた。背中を這う熱いものはーー彼の舌だ。
 どこに触れられてもすべてが刺激でしかなかった。けれどそのどれもが、決定的ではない。一番触れて欲しいところには触れてもらえず、もどかしさに身体が一層疼く。
 おかしくなって欲しいと彼は言った。けれど、そんなものとっくになっているのだ。言われるまでもない。
 喉元を撫でていたコンラートの指先がそろりと上がり、ユーリの唇に触れた。輪郭を確かめるようになぞるそれを、何も考えずに口に含む。唾液を絡ませ、舌を這わせ、ただ無心でしゃぶった。
 そうして瞼を閉じるとよくわかる。意外にも武骨な指。短く整えられた丸い爪。皮膚が厚いのは剣を振るうからだろうか。
 ユーリを護るための手。抱きしめるための手。一度は失われたはずのそれ。何よりも愛おしい男の。
 ひとつひとつを確かめるように夢中で、しかし丁寧に舌でなぞってゆく。
 いつのまにか指は一本から二本に増やされていた。
 口の端から唾液が伝うのも構わず、指の付け根から先端まで舐め上げる。それから全体を口に含んでゆっくりと上下した。時々吸い上げるようにすると、コンラートが笑うような、呻くような声を漏らすのが聞こえた。どこか獣めいた音だった。
 それはユーリが彼自身を愛撫するときに教え込まれた動きだ。
 這わせた舌が、指と指の間の薄い皮膚に触れた瞬間、身体の中に埋め込まれていた熱があからさまに質量を増す。
「……ユーリ、」
 絞り出すように囁かれた声に顔を上げると、狂おしいほどの光を抱いた瞳と視線が絡まった。
 水滴を滴らせた前髪の間から、ユーリ一人を閉じ込めたひたむきな瞳が覗いている。お互い何も言わずにただ見つめていた。引き寄せられるようにして唇が重なった。
 膝裏に手が添えられて、そのまま立ち上がるように促される。ずっと中に埋め込まれていた熱がずるりと外へ引き出された。
「ん……っ」
 今はそれすら刺激だった。ぞくりとした感覚が背筋を駆け抜けた。
 水中から腰を浮かせると、忘れていた重力にそのまま膝から崩れ落ちそうになる。さりげなく支えられ、誘導されるように目の前の縁に手を付くと、必然と突き出すような形になった腰を、後ろから男がぐっと引き寄せた。
 荒い息を整えながらユーリはぼんやりとした頭の片隅で、その腕の逞しさを改めて感じていた。
 筋張ったそれはしなやかで力強いのに、どこまでもこちらを労わる優しさを持っている。その手でもっと満たして欲しい。全てをぶつけて欲しいと思うのに、頭が真っ白で伝えるための言葉が出てこない。だからユーリは腰に回されたコンラートの手に、自分の手をそっと重ねた。
「大丈夫だよ、ユーリ」
 髪を数回撫でて、優しげな声が囁いた。
 あやす様に大きな手のひらが背中に触れる。
 ゆっくりと、再び熱が侵入してくる。
「……ん、」
 鼻から抜けるような声を漏らして、ユーリは知らずとコンラートの手を握る力を強くする。
 先ほどまで埋め込まれていたためか、それは割とすんなり根元まで納まった。コンラートの指が、深く呑み込んでいる部分をそっとなぞったのがわかった。
 見下ろすと、限界まで焦らされた自分の中心が腹に付きそうなくらい反り返り、透明な先走りをはしたなく零している。早く早くとねだっている。
 もういい加減どうにかして欲しい。解放してほしい。伝えたいことは沢山あったが、ユーリははくはくと息を漏らしながらコンラートの目を見て、
「おねがい」
 とだけ口にした。
 ぞくりと震えが走るほどの艶のある笑みを口元に浮かべた男が、ぎりぎりまで引いて、一気に貫いた。
 それから絶え間なく揺さぶられ、突き上げられ、目の前が真っ白になる。容赦なく、力強く攻め立てられる。
 コンラートの手が前へと触れた。散々触れてほしいと願っていた場所なだけに、ただ握られただけだというのにそれだけで気が狂いそうだ。
「ああっ」
 屋外の開放的な空間で、その声ははっとするほどよく響いた。ぶつかる対象をもたない音は、闇の中で弾けて、吸い込まれてゆく。
 羞恥のあまり必死に唇を噛み締めるのに、前をゆるゆると扱かれ、後ろからは遠慮なしに突き上げられたものだからどうしても堪えきれずに零れてしまう。
「ふっ……ん、」
「我慢せずに声を出した方が良い。そのほうが楽だから。あなたの声がもっと聴きたい」
「ぁ……だれかに、きかれたら……ッ!」
「彼らは優秀です。皆ちゃんと聞かなかった振りをしてくれますよ」
 それは結局聞かれているんじゃないかと思いはしたが、促すように口の中に指を差し込まれてどうにもままならなかった。傷つけてはいけないと自然と口を開いてしまうと、もう自分の意志では止めようとしても止まらない。
 すすり泣きにも似た嬌声を上げる自分自身を恥ずかく思う一方で、妙な興奮を感じているのもまた事実だった。浴室でこういった行為に及んだことは何度かあるが、屋外でというのは初めてだ。
 強すぎる快楽から逃れようと、無意識に身体を捩らせる。そんなユーリの片方の腕を、後ろからコンラートが掴んだ。優しい拘束だったが有無を言わさない。ぐっと背中が弓なりに反らされる。
「ユーリ……ッ、」
 切羽詰まったように名前を呼ぶ声に、ぞくりと感じた。
「あ、あっ、こんらっど……!」
 視界にじわりと涙が滲む。もう何も考えられない。頭の奥が痺れるほどの快楽に翻弄されて、何度も何度も突き上げられるままに声を上げる。
 やがてコンラートの手の中で果てるのとほぼ同時に、最奥に熱いものが注ぎ込まれるのを感じた。
「は、あ……」
 余韻に幾度か身体を震わせて、ユーリは息を付く。頭は依然としてぼんやりとしたままだ。
 散々苛められてくたくたに疲れ切った身体はそれ以上立ってはいられず、くたんと全身の力が抜けたように湯の中に滑り落ちた。
 珍しくも慌てたようなコンラートの顔が何だか可笑しかったが、笑うよりも前にユーリはそっと意識を手離していた。




「すみません調子に乗りすぎました」
 神妙な様子で下げられた男のつむじを、ユーリは冷ややかな目で見下ろした。
 二人とも寝室で向き合っていた。ただしユーリは寝台の上で腕を組んでふんぞり返り、コンラートは床の上に悄然としたように正座している。
「おれ、言ったよな。のぼせるからって」
「はい」
「程々にしろって。言ったよな」
「はい、確かに。でも無理でした。あなたがあまりに可愛いから」
「人のせいにしないでくれる!?」
「本当のことですから」
「ドヤ顔で開き直んな!!」
 ユーリは腹立たしさをぶつけるように、手の中のタオルをぎりぎりと握りしめた。先ほどまで横になっていた自分の額に乗せられていたものだ。もうすっかりぬるくなっている。
 こちらを見上げていたコンラートが、以後気を付けますと素直にもう一度頭を下げた。さすがに悪いと思っているのか、ユーリの目から見ても本当に反省しているのが伝わってくる。心の底から反省していることと、今後同じ過ちを繰り返さないことははっきりいって別の話だろうが、そこはあえて考えないでおくことにした。
 しかし気を失う直前に見た彼の顔は、確かに本気で焦っていた様子だった。珍しいものが見れたと思うとそれだけで、のぼせて意識を失った自分のことなど割とどうでも良くなってくるから我ながら現金なものだ。
 もともとユーリは自分自身を理由に怒ることがあまりない。幸いにも健康に恵まれたこの肉体とそれに宿る健全な魂は、自分に関する大抵のことは「まあいっか」で済ませてしまう。なのでこのときもあっさりと怒りの感情を手離した。
「いいよ、もう」
「怒っていませんか?」
 しょんぼりと項垂れる様子がルッテンベルクの獅子と呼ばれた男らしからぬ姿で、思わず笑って肩を竦ませる。妙に可愛らしい。
「怒ってないって。それに……あーその、き……気持ち良くておれも途中から夢中になってたし……」
 もごもごと口にした言葉は限りなく小声だ。自然と熱くなる頬を隠すように顔を背けた。視界の端で、心の底から嬉しそうに笑う名付け親の姿が目に入る。やめろ、そんな目で見るんじゃない。
 さっさと逃げてしまおうと寝台から降りようとすると、予測していたような素早い動きでコンラートが乗り込んでくる。ユーリの片手を捕らえ、くっと軽く引っ張り押し倒す。
 あっという間に見下ろしていた立場から見下ろされる立場へと逆転されて、唇を噛んだ。
 こういう抜け目のないところは本当に可愛くない。けれども見下ろしてくる視線が、甘えるような色を帯びたやわらかさを伴っていたので、こういうところはやっぱり可愛いかもしれないとユーリは思い直した。
 腕を伸ばして頭を包み込むようにして引き寄せる。胸元に擦り寄ってくるその様は大型犬のようで、思わず笑みが零れた。
「その笑い方は、俺にとってきっと嬉しくないことでも考えているんでしょうね」
「そんなことないよ。実家で飼ってる愛犬みたいで可愛いなあなんて思っていないって」
「やっぱり」
 悲しむように眉を下げているけれど、どこか冗談めいていてそれもまた可愛い。ユーリは拗ねている男の鼻のてっぺんに、軽いキスを落とした。
 こうして向き合ってみると、彼の表情は意外ともいえるほどに良く動くことに気付く。それも最近のことだ。こういう関係になる前はそうでもなかった。彼は常に笑みを浮かべてはいたけれど、それ以外の――特に一般的に負と部類される感情は、なるべくユーリに見せまいと振る舞っているようでもあった。名付け親として、護衛として、まるでそうあるべきだと己に言い聞かせるように。
 お互い離れていた時期があった。そのときは笑顔すらなく、ただひたすらに何かを抑え込んでいるようだった。
 それが紆余曲折を経てこういう関係になって、様々な彼の感情を目にすることができる。その事実は時々ユーリをどうしようもない気持ちにさせるのだ。
 彼が当たり前のように笑い、怒り、拗ねて、悲しんで。そうしてそれを受け入れることが出来る。それが出来てようやく、二人同じ目線で同じ景色を見ることができるのだと、心の底から思える。
 心が離れていた時期もあった。指先ひとつまともに触れられないような、そんな時期が。でも今はこうして彼の心はまっすぐに、しなやかに、正も負も全てをないまぜにして、ユーリの元へと飛び込んでくる。そのことが、何よりも嬉しい。
 さらけ出してくれる。受け入れることができる。飾らない姿で向き合える。ああ、とユーリは思う。
 ――ああ、幸せだ。
「コンラッド」
 手を伸ばしてもう一度身体を引き寄せた。腕の中に閉じ込めるように、そっと抱きしめる。
「好きだよ」
 じっとこちらを見つめていたコンラートが、
「俺もです」
 静かにそう呟いた。
 そのまま二人抱き締め合ったまま、朝まで眠りについた。
 眠って、起きて、そうして窓から眺めた血盟城は朝日に照らされて今日も美しく輝いている。
 グウェンダルから貰った休暇は残りあと二日。さてどう過ごそうか。たまには何もかもを忘れて、ただひたすらだらだらと過ごすのも良いかもしれない。何の目的もない無意味な時間でも、隣に彼がいればきっとそれだけで楽しいはずだ。



更紗さまより頂きました!

更紗さんちの次男の口から時々さらっと飛び出す爆弾発言が大好きです。
「じゃあユーリはマイナスイオンですね」とか!
「あんたほどじゃないよ」ってさらっと返しちゃう陛下も、無意識なんだろうけど、なんというバカっぷるw
(可愛らしいですね、についての)「あなたのことだよ、ユーリ」とか「ハネムーンみたい」とか
ユーリと二人きり(使用人はいるけれど)という状況にうきうきしてる様子が伝わってきて
すごく楽しい気持ちになりました。
次男はうじうじしているところも良いですが、ユーリのおかげで幸せいっぱいになっているところも
良いものですね。

いただく約束をしてからずーっとずーっと楽しみに待ってたんですよ。
ええ、一日たりとも忘れたことはありませんでした!
待った甲斐があって、素敵なコンユがいただけて、大変幸せでございます。
更紗さん、ありがとうございました!
(2013.07.29)