小ネタ19


 くらりと眩暈がして、とっさに口許を押さえた。
 次いで、心拍数と同時に体温が上昇していくのを自覚していくほどに、眉根が寄る。
 しまった、と思ったところで後の祭りだった。



「ユーリ……これを、どこで?」
 視線の先には、見たことのないラベルの瓶と、ほぼ空になったグラス。
 先ほど、彼が『うまい酒が手に入った』と持ってきてくれたものだった。
「グリエちゃんがお土産だって」
 それがどうしたのか?と不思議そうに首を傾げる彼は、本当にこれが酒だと信じているのだろう。
 犯人のにやけ顔が頭を過ぎったが、浮かんだ怒りは長く続かなかった。
 報復は後でいい。今は、この状況をどうにかすることが先決だ。
 酒だと言われた飲み物の中身は、毒ではないけれどある意味で毒よりも厄介なもので。
「コンラッド、どうかした?」
「いえ。強い酒だったようで、少しクラッとしました」
 気付かれないように、気をつけながら細く深く息を吐いた。
 会話をしている間も全身が脈打ち、摂取した媚薬が身体中をめぐっていくのが分かる。
 早くなんとかしなければ。
 不幸中の幸いは、彼がそれを口にしなかったということ。


「すみません、ちょっと酔ったようなので今夜はこれで」
 始まったばかりの宴は、あっという間に終わりを迎えた。
 言葉通りほのかに顔を赤らめたコンラッドという新鮮な発見は嬉しくもあったけれど、それ以上に彼の表情がすぐれないことが気にかかる。
「なあ、大丈夫?」
「ええ、寝れば治りますから。申し訳ないですが、ご自分で部屋に戻れますか?」
「そんなことはいいよ。お水持ってこようか? それとも冷たいおしぼりの方がいい?」
 過保護なぐらいの彼に送ると言われなかったのは初めてのことだ。
 いよいよこれは大変な事態だと彼の具合を知りたいのに、一歩近づけば、彼が逃げる。
 顔を隠すようにしながら、こちらに視線を合わせずに。
「なんかおれまずいことした?」
「そんなことはないんです。少し……、いえ」
「なんだよ」
 歯切れが悪い。
 こうして話している間にも、ますます彼の具合は悪化していく一方だ。
「もういいから寝ろよ。肩貸そうか?」
 断られても貸すつもりで彼の腕の下へと潜り込もうとしたのだが、やはり逃げる彼ともみ合う形になっていた。
 普段ならばびくともしない彼の足元は、酔いのためかおぼつかず、まずいと思った時にはバランスを崩していた。



 ベッドに倒れこむ僅かな隙にも、おれを守ろうとしたのだろう。
 彼の両腕がしっかりおれを抱きこんでいた。
「コンラッド?」
「……」
 呼びかけに、返事はなかった。ただ、頬にあたる彼の胸が、早鐘を打っていた。
 息を潜める彼は、指一本さえ動かしてはいけないとでもいうように、微動だにしない。
 まるで何かを堪えるみたいだ。
「なあ、コンラッド?」
 何度目かの呼びかけのあと、どうにか僅かな隙間をつくって間近の顔を見上げると、彼は苦しげに、切なげに顔を歪めていた。
「……媚薬です」
 ようやく口を開いた彼の声が、掠れながらもおれの耳に届いた。


 出来ることならば、真実を告げずにどうにかしたかったのだが。
「媚薬って、えええええええええ?」
 腕の中、言葉の意味を理解したのだろう。途端に頬を朱に染めた彼の姿に、笑いかけようとして失敗した。
「……体調が悪いわけではないので、大丈夫ですから」
 むしろ、彼がここにいては逆効果だ。こうしている今でさえ、彼から離れなければいけないと分かっているはずなのに、動けずにいる。
「媚薬って、ごめん、おれ知らなくて」
「あなたのせいじゃない」
 悪いのはすべてあの悪友だ。
 こんな顔をさせたくなかった。けれど、言わずに乗り切ることはできそうになかった。
「媚薬って、つまり、その……」
 身体が熱い。腹の底からわきあがってくる衝動を、荒い呼吸を繰り返すことでどうにかやり過ごしてはいるものの、いつまで持つか。
「お願いですから」
 早く逃げて欲しい。
 どうか。
 鉛のように重い腕をどうにか持ち上げて彼から離した。仰向けに放り出した身体に、冷たいシーツが心地よい。ほんの気休め程度ではあったけれど。
「……」
 もぞりと彼が上体を起こした。
 目を閉じ、胸を大きく上下させながら、彼が部屋から出ていくのを待つ時間が途方もなく長く感じた。
 どうか、一刻も早く。
 けれど、彼の気配は一向に離れることがなかった。
「コンラッド」
 身体に重みがかかる。彼の体重を受け止め、目を見開いた先には、宝石のような瞳があった。
「このままじゃ、辛いだろ」
 辛い。だから、こんなにも焦っているのだ。
 どうにかして説得したいのに、今は彼を納得させられるだけの言葉を考えることさえできない。
 思考が霞がかり、彼以外のことを考えることを放棄しようとしていた。
「我慢しなくていいから」
「ユ……リ…」
 なんて甘い誘惑なのだろう。
 縋りつきたい衝動を堪えたのは、目の前の彼の瞳が心配の色に翳っていたからだ。
「責任、なんて」
 責任なんて感じる必要はない。これは事故のようなものだ。彼のせいではないのだと、言いたいけれど言葉がでなかった。
「責任だからじゃない。おれが飲ませたんじゃなかったとしても、おれは同じことを言ってたよ」 自分の唇がカラカラに乾いていたことに気付いたのは、唇が重ねられた後のこと。


(2014.01.20)