髪を切る - 聖護院ひじり様


 しばらくご無沙汰だった床屋のおじさんが、丹念に梳いた髪をひと房手に取る。じゃきりとハサミが入れられる。
 魔王専属の理容師というのが本当は居るそうなんだけど、髭くらい自分で当たるし、他にもやりたがる人物も居るしで置かなかった。
 そんなんで月に一度の散髪の時には、城下から一番格式の高い店のおじさんが呼ばれて来ることになっている。
 この選出だって大変なんだそうだ。何しろ首筋すぐそばにハサミや剃刀を当てるものだから、とにかく信頼が置ける人物でないといけない。
 幸いこの七十年余り、散髪の際に問題が起きたことはない。超一流のおじさんのサービスをここ数年受けずにいたのは、別に床屋に問題があったせいではない。
 ただあの時、風呂上がりの髪を乾かしながら「襟足が少し伸びましたね」とコンラッドが言って。「まだいいよ」と自分が答えて。
 それからだ。それからずるずる床屋を呼ぶこともなくきて、この髪もずるずると長くなっていった。
 あの時は。
 自分とコンラッドは関係を解消していた。
 理由はあって無いようなものだ。
 彼だけを特別にしてしまっていることへの一部の貴族の反発はこれまでもあったことだったし、根本の部分で引き気味なコンラッドなんてのはもうずっと始めっからだ。国内外から紛れ込む縁談話も、コンラッドへの嫌がらせも、政治的な交換条件にされることだって。
 だからこれが理由、なんてものは無かったのだ。後になって思えば。
 色んな事が重なって。これまでの積もり積もったものもあって。なんとなく平和だったのもいけなかったのかもしれない。いわゆる倦怠期ってやつか。
 だけど、にもかかわらず。単なる護衛がしないような細々としたことは続けてくれていたのだから、関係を絶ったといっても妙な具合だった。二人の間から恋人の部分を差し引いただけというか。
 不都合が無い限り朝は起こしに来てくれていたし、身の回りの世話だってたいていコンラッドがしてくれていた。
 風呂上がりに髪を乾かすことだってそうだ。まるで幼い子供を世話をする親みたいで、いい年をしてなんだかなぁという気もするが。すっかりその干渉を断ってしまうことも出来なかったのだ。
 むしろずっと傍にいてくれるのならば、もう恋人なんて面倒な間柄で無くていいとか――それこそ熟した夫婦みたいな状態を望んだのか。
 それでも魔王の濡れた髪の世話が終われば退いてしまうのが寂しくって。少しでもその時を引き延ばそうなんて考えた自分は枯れるにはまだまだ早かったらしい。もっと欲深くって。
 結局コンラッドと『別れた』状態でいたのは、半年…一年にも満たないくらいの間だった。これまで繰り返してきたあまたの喧嘩と同じように、なし崩しに撚りを戻したのだ。
 ただ、髪は、彼が手慰みに指を絡めたり梳き通したりするのがこちらも心地よくって、そのまんまになってしまった。
 目に被さってうっとおしい部分や重くなりすぎたのは適当に切っていたけれど、それだって理容師を手配するまでもなくやって貰っていたから。
 そんなわけで数年ぶり、だ。
 魔王を真似て皆が伸ばすものだから、床屋はどこも商売あがったりだと。そんな嘆願書が届いてしまって。元より惰性で伸ばし続けていただけに、切ることに躊躇いはなかった。
「如何でしょう」
 鏡の中で床屋のおじさんが合わせ鏡を掲げて尋ねる。
 格段に軽やかになった頭を振る。
 短い毛先がぱたぱた踊って、剥き出しの襟足がすーすーする。重いコートを脱ぎ棄てた時のような開放感に心が浮き立つ。
 確かにちょっとしたしがらみを振り捨てたようなものか、と少し離れた所から眺めている護衛に目をやった。
 確かにすっきりさっぱりするだろうけれど――。
 そんな心内など知らずに護衛は「お似合いです」と返してくる。
「ありがとう。また来月も頼むよ」
 おじさんに礼を言って立ち上がった。
 髪が短くなっただけでそんな動きすら弾んで感じて、笑みがこぼれた。

「やっぱり物足りなくはあるかな」 
 背後のコンラッドが髪を拭き拭き残念そうに呟いた。
 確かに洗うにしてもびっくりするくらいあっけなくて、思わず手が空振る位だった。だけどその感想は物足りなく、なんかじゃなくって。むしろ清々した、だ。
 こんなに楽チンなんだったらもっとさっさと切っておくべきだった、の後悔しか浮かばない。
 暖炉の前で乾かして貰うのだってあっという間だ。タオルを乗っけてわしゃわしゃやってるだけで粗方済んでしまう。
 手櫛で整えられて、僅かに湿気を残した冷たい髪がこめかみを掠める。そんなのも久しぶりで、そのたびに手に入れた身軽さに嬉しくなる。コンラッドには悪いけど。
 だけどそんな無防備なうなじを晒してるということは、何の前触れもなくそこに吸いつかれる可能性もあったわけだった。
「おいっ」
 驚きとそれだけじゃない反応で震えて。
 閉じ込めるみたいに廻された両腕をぱしっと叩いて抗議するけれど、本気じゃないのでもちろん奴は止めない。
 ただ、首筋のやわいところを甘噛みされて流石に逃げた。
「馬鹿、痕つけんなっ」
 遮るものがなくなると丸見えだ。
「すいません。ついうっかり」
「なわけないだろ」
 痺れたように感じる跡を乱暴に擦った。
 切り落としてしまってさっぱりした筈なのに。だけど今までずっとあったものが急になくなると、薄ら寒くて。
 温もりを求めて結局凭れかかってしまう。
 抱き込まれた腕の中で、今度は耳たぶを狙われて。すくめるふりで頬を摺り寄せた。
 髪を乾かす時間は短くなったけれど、その分純粋にいちゃいちゃする時間が増えた。結局、何も変わらないのだった。


(2009.12.24)



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