第4話


「彼女が出来たんだ」
 へへ、と照れながら笑う幼なじみは、二十歳という年齢よりもずいぶん幼く見えた。
 お互いの間にあるローテーブルには飲みかけのオレンジジュースと、空になったケーキの皿。紅茶ではなくオレンジジュースなのはユーリの選択だ。いつも、果汁三十パーセントのこれ。ユーリ自身が好きだというのもあるが、どちらかというと俺のために選択だろう。先日、コーヒーを飲んでいるところを見咎められた。コーヒーは子供が飲むものではない、らしい。好意を嬉しいと思う反面、いつまで経っても彼の前では子供なのだと、変わらない認識に苦笑が漏れる。
 食べ始める前から何か言いたそうな雰囲気は感じていたが、食べ終えた後に口から飛び出した発言は予想だにしないものだった。
 階下から漂う夕食のカレーの匂いだとか、開けられた窓から聞こえてくる道行く子供の賑やかな声だとか、そうした日常が急に色褪せていく。
「そう、ですか…」
 俺は急に乾きだした口から、なんとか言葉をしぼりだした。他に何を言うべきか、思いつきさえしない。口が裂けても、良かった、などとは言えるはずがない。
 冷静なふりができたのは、そこまでだった。
 どこで知り合ったのか、どんな人なのか。彼の口から自分以外の人間の話など聞きたくなどなくて、ローテーブルの上へと身を乗りだした。
「コンラッド?」
 肩を掴む。昔は抱きしめられると腕の中にすっぽり収まった。彼がとても大きく、自分がひどく小さく見えた。
 あれから何年も経って、身長が並んだ。これからもっと成長するはずの俺と、あの頃からあまり変わらない彼。追いつけると思っていたのに。
 押さえきれない気持ちがこぼれて、手に力が籠もった。痛みを与えているのだろう、ユーリが少しだけ顔をしかめ、けれど怒るわけではなく不思議そうな視線を向けてくる。
 視線を逸らさぬまま見つめ合うと、突然の行動の意味が分からないせいか、沈黙が不安を呼んだのかユーリの表情が曇った。
 くるくる変わる表情の中で、笑顔が一番好きで。いつも笑っていて欲しいと、思っているはずなのに。自分が理由ではない笑顔が消えたことに、ひどくほっとしてしまう。
「子供のままでいられたらいいのにね、ユーリ」
 物心ついた頃からずっと一緒にいた。兄弟のように育った。でも、兄弟じゃない。例え、ユーリが俺のことを弟のように思っていたとしても、俺は決してユーリの弟にはなれない。なりたくもない。
 毎日一緒に遊んで、一緒に眠って。
 子供の頃は世界が小さくて、だから、いつも手の届くところに大事なものがあった。大人になるにつれて、少しずつ世界が広がって、大事なものが離れていってしまう。
「コンラッド、どうした…っ」
 抱きしめられるんじゃなく、抱きしめたい。
 離したくない。誰にも譲りたくないのだ。
 掴んだままだった肩を引き寄せる。
 ユーリは、決して俺を疑ったりしないから、逃げるなんて考えもしない。ユーリの視線を受け止めきれずに、俺は目を伏せた。
 グラスが倒れ、テーブルの上にオレンジジュースが広がっていく。部屋に差し込む夕暮れが、それを赤く染めていた。

「ユーリ」
 優しくて、鈍感な幼なじみ。
 好きだと言う代わりに名前を呼んだ。
 この行為を、ユーリはどう受け止めるのだろう。
 触れたくてたまらなかった唇は、想像よりもずっと柔らかくて、甘くて、オレンジジュースの味がした。


(write:2010.07.22/up:2011.07.22)