1.キッカケ


 それは、コンラッドの転勤だった。

 コンラッドが引っ越す。
 栄転よ、おめでたいわねぇ、などと夕食の席でお袋にのんびりと言われて、俺は思わず箸を取り落としてその場から駆け出した。
 向かったのは隣の家。
 乱暴にチャイムを何度も鳴らした俺を出迎えてくれたのはコンラッド。俺の慌てた様子に驚きながらも、いつも通りの優しい笑顔を向けてくれた。
 いつだって、そうだ。常に優しい。俺が落ち込んでいる時も、嬉しい時も、穏やかな空気を纏って一緒にいてくれた。十六年間、ずっとだ。
「どこにも行くなよ」
 玄関先だということも忘れて、首に飛びつく。
 俺の言葉に、何のことか察したらしいコンラッドが、あやすように背中を撫でてくれた。
「すみません」
 行かないと言って欲しかった。
 コンラッドは俺には嘘をつかない。謝罪の言葉しかもらえないことに絶望して、俺は子供みたいに泣いた。
「嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ」
「ユーリ…、ごめんね」
 首にしがみ付いたまま、駄々を捏ねた。
「じゃあ、俺も一緒に行く」
 思いつきで口にした言葉だったけど、コンラッドは何故か謝らなかった。その代わり「本当に?」と一度だけ確認されたから、俺は必死に何度も頷いた。

 その後は、俺が泣き止むのを待ってくれたコンラッドに手を引かれて、夕食中の家に戻った。
「ユーリを…、息子さんを俺に下さい」
 キャーッと黄色い声で叫びだしたお袋と、白くなって固まった親父と、お父さんは許さんなどと親父でもないのに叫ぶ兄貴と。
 一瞬にして食卓に嵐が吹き荒れた。
 俺はただ、見たこともないぐらい真剣な表情のコンラッドに驚いて、握ってもらったままだった手にちょっとだけ力を込めた。


2009.08.27
結婚までの道のり、その1
その2、その3と続く予定
もうしばらく新婚生活はお待ちください